春雷

「それ、いつからだ。癖になってるだろ」
 え? と疑問符のついた視線が向けられる。無意識ならば思っているより根深い問題かもしれない、とため息を吐きたくなるのを抑えて、衿の合わせに置かれた白い指を小突いた。
「胸、痛むのか」
 痛むなら一度心臓もきちんと診るが。問えば慌てたように頭をふる。無作法を窘められて恥じるように指を握り込んで、大したことはないと仄笑った。
「痛みはないから、大丈夫」
「痛み『は』? 何にせよ気になるのか」
「大丈夫ですってば……その、少しかゆいというか」
 皮膚の奥が軽く疼くような、むず痒いような気がして。きっと気のせいだと彼は言った。
「その程度で爪は立てんだろう。少し見せてみろ」
 了解を得て衿を開けば、右の鎖骨の下、薄く肋の影がなぞれるあたりに複数の引っ掻き傷が筋を描いていた。血が滲むほどではない、しかし確実に力を込めなければ残らないであろう痕に指先で触れる。肩峰側から胸骨端へ向けてつっと引けば、薄い肩がふるりと揺れた。
「ふ、ふ……くすぐったい」
「だいぶ強く引っ掻いただろ、これ。本当に痛まないのか?」
「多分、発作を起こしたときに息苦しくてほとんど無意識に……普段はなんともないから気にしないで」
 短く整えられた爪でも肌を傷つけるほど苦痛に喘ぐ病状の患者に気にするなと言われてはいそうですかと引き下がる医者がどこにいるんだと言いたくもなる。
「何度も言っているが……入院して治療する気はないか」
 普段はなんともない、本当にそう思っているのなら益々よろしくない。なんともない人間の呼吸には常に異音が絡んだりしない。天候が傾く度に発作に襲われたりしない。枯葉が石畳を転がっていくような、空虚で重さのない咳に延々嬲られることもない。
「何度も申し上げていますけれど、お断りします」
「どうしても駄目か? せめてひと月だけでも」
 病のご機嫌伺いをしながら日常生活が送れるような状態ではないのだ。静養して三食決まった時間にきちんと摂って心身を極力安定させた状態に保って、それでようやく少し上向いてくるかどうかというところなのに、こいつときたら何ひとつ達成させる気がない。上擦った呼吸をしながらでも稽古を続けようとするし、一度集中してしまえば食事も睡眠も二の次だし、わざわざ飛び込まなくてもいい心労極まりない相続争いに首を突っ込んだかと思えばいつの間にやら分家独立して若き家元として活動を始めてしまうし。目端のきく弟子が共に暮らしていなければとっくに生活を破綻させていたに決まっている。
「ひと月も稽古から離れたら、身体が動かなくなってしまう」
「動かしていい状態じゃあないんだよ……全く、こうなるとわかっていたなら学生のうちに無理にでも止めておいたのに。日本舞踊なんて精々箱入り娘の嫁入り修行程度のものだろうと思って甘く見た俺が間違ってた」
「ふふ……そのまま騙されていてくれればよかったのに」
 その家業が虚弱な身体にとんでもない無体を強いているとわかったのは医者になってからのことで、学生の頃はまあ本人が続けたがっているのなら別にいいかと放任していたのを、今更やめろと言い始めても聞き分けてくれるはずがなく。なまじ学友としての年月が長い分、医者としての忠告がまともに聞き入れられた試しがない。
「せめてもう少しだけでも仕事量を減らせないか? 公演数を減らせないならせめて弟子への稽古だけでも」
「あの子は名取になってたった数年。仕込むべきことは山ほどあるし……何より、私がまだ教えていたいから」
 せめてあと五年保たせてくれませんか。はっきりとした意志の灯る瞳で、彼はしかと見つめてくる。
「そう思うなら入院しろ。療養と、設備の整った環境で一度きちんと検査もすべきだ」
「今の生活のままで、五年保たせてください。君ならやってくれるでしょう?」
 俺に対して敬語を使うのは大抵無茶な「お願い」のときだ。断れないと知っていて、わざとこういう物言いをする。
「縁起でもないことを言うな。穏やかに落ち着いて生きていくだけなら十年だって、」
「私が望むのは安穏と満ち足りた十年ではなく、あの子を一人前に仕立てるための五年です」
「医者として到底許可できない」
「旧くからの友としてならば?」
 俺は言葉を詰まらせた。それが答えだとでも言うように、彼は薄く笑った。
「頼みます」
 この声に、表情に、何度無謀を飲み込まされたことか。医学や倫理を振りかざしたところで、どうしたって感情に諾と言わせられる。こんなことは間違っているとどれだけ叫んだって、きっと最後には優しく口を塞がれる。
「……まったく、とんでもない奴を友に持ったものだな」
 いいか、今度こそ次はないからな。半ば自棄になって言うも、彼は相変わらず全てを見透かしたようなすまし顔をしている。
「今後も薬さえ効かないような発作を繰り返すようなら、問答無用で病院にぶちこむから覚悟しておけ」
「そうならないように気をつけます」
 あの子、なかなか帰ってきませんね。簡単なおつかいを任せただけなんですけど。日に日に昼の短くなっていく窓の外を見遣って、彼はひとつ呟いた。暮れかかった秋口の風に、柔い髪がそよいでいた。