反転郷

 軽く体重をかけて凭れた本棚の冷たさが、ぞっと背を這い上る。ああ、いかんなあと呟いた声は散々に掠れていて、自分の耳でさえよく聞き取れなかった。
 頭の先から腹の奥底までをどろりと満たす、不快な熱が思考を阻害している。ここはどこで、何時で、自分は誰で――彼此の境界が曖昧になる。
 ああ、もう姿勢を保っていられそうにない。重力に抗わず崩れれば、目の奥をぐるぐると回る痺れたような熱は少し遠ざかった。
 少し楽になったかと思ったのも束の間、今度は胸が重くなる。転生前と変わらず宿痾を宿した肺はすぐに往時の血の味を思い出してしまうのだ。
 影法師が浮いている。自分にだけ見える影法師だ。いつからそこにいるのかわからないそれは、気がついたらすぐ近くにいた。まるで何かから護るようにぴったりと寄り添ってみたかと思えば、気まぐれにふわふわとそこらを漂っていることもある。太宰クンや他の皆にもそれとなく訊いてみたが、どうやら他の人にはそういうものはついていないらしかった。

 霞む視界に二重写しで何かが見える。町の景色だ。
 路面電車が走っていく。人々が歩いていく――しかしその全てが上下逆さまにひっくり返っている。
 そうか、自分が床に転がっているからそう見えるのだ。天地があべこべになったまま、流れゆく町をぼんやりと目に写していた。
 ああ、書ける。書き手としての本能でそう思った。書ける、これを書いて、今すぐにでも形にして、そうして――ふと涙が頬を伝った。胸苦しさに零れた涙かと思ったが、どうやら違うらしい。
 書ける。そう思う裏で、本当はもう決して届かないと悟っていた。二度と愛した町には帰れない。暗い絶望に呑まれかけていた、しかし深く愛してもいた、あの青春時代にはもう二度と戻れない。生涯でただひとり、本気で愛した人には二度と出会えない――全ては過去の話で、精神だけがその狭間で時をとめたまま、今こうして自分は歪に蘇った。
 あの日、あの暗い青春の日々を共に歩んでくれたのは誰だっただろう。転生した新たな存在である「織田作之助」の中に、その存在は残されなかった。いや、本当はどこかにあるのかもしれないが、思い出すのを拒否しているのかもしれない。

 影法師に手が届かない。手を伸ばしてはいけないのかもしれない。
 いつも背中のあたりでふわふわしているその影は、今日は何故か泣いているらしかった。
――誰かしらんけど、きみはワシに死んでほしくないんやなぁ。大丈夫、もう死なへんよ。
 元気の出るお薬が欲しいなあ。俺より注射を打つのが上手かった奴、あれ、誰やったっけな。
 影法師はひとつ頷くように歪んだ。
――すまんなあ、きみが大事な人だったようには思うんやけど、ワシ、どうしても思い出せんのや。いつかどっかの本の中で出会えるやろか。なぁ?