帰り花を待つ - 1/4

 昼過ぎの病院は人もまばらだった。待合室を出て受付の看護婦に軽く頭を下げ、玄関へと向かう。
 今にも雪の降り出しそうな冷え込みようだった。次の休みには屋根の雨漏りを直さないと凍える冬を迎えることになりそうだと考えながら、使い古して見るも無残な上着に袖を通す。まともな背広の一つでも手に入ればもう少しマシな仕事に就けそうな気もするが、今は服よりも日々の食糧を手にいれる事に尽力しなければあっという間に飢えて死ぬだけだろう。
 ふと、けほけほ、と弱い咳き込みが聞こえた。見ると受付横の窓辺の椅子に若い男が腰掛けている。自分より少し年上に見える男は薄い浴衣の上に藍鼠色の羽織一枚という出で立ちで、所在なさげな様子も相まって一層寒々しく見えた。
 視線を感じたのか、男はふい、と何気なく顔をあげた。
 底深い黒曜石のような静かな艶を湛えた瞳と視線が交わる。それが驚きに見開かれるのを俺は見た。
「ゆきひろ……!」
 ふら、と男が立ち上がる。柳の枝のように細い足は体重を支えるのもやっとなのではと思わせる頼りなさだった。
「ゆきひろ、帰ってきてくれた」
 白い女性のような細い手が俺の手を固く握り締めた。それは見た目とは裏腹に案外強い力だった。
「悪いが、人違いじゃないか、」
 俺はしどろもどろに言った。
「いいえ、いいえゆきひろ、ずっと、ずっと待って……
 男は俺の手を離そうとはしない。男の真っ直ぐな目は本気だった。
 俺は困惑した。人違いだとは思うが、それを否定しきることはできなかった。何故なら俺は――

「小波津さん!」
 廊下の向こうから看護婦が走り寄ってきた。看護婦は男の折れそうに細い手をそっと掴むと、俺からやんわりと引き離した。
「小波津さん、部屋に戻りましょう」
 男はまだゆきひろ、と呟きながら俺の方を見ていたが、看護婦に肩を支えられると悲しげに踵を返し、頼りない足取りで廊下の向こう、病室の並ぶ方へと歩いていった。突然のことに、俺は何も言えないままにそれを見送った。
「すみません、よくあることなんです」
 受付から身を乗り出すようにして様子を伺っていた看護婦が、申し訳ないと頭を下げた。
「出征したきり行方知れずになってしまった弟さんを待ち続けて……可哀想に、少し精神を病んでしまって。ああして時折ふらりと病室を抜け出しては、弟さんが帰ってきやしないかとあそこの椅子でいつまでも……
 きっと貴方の軍服姿を見て混乱してしまったのでしょう、と看護婦は言った。
「出征したきり、ね……

 俺の帰りを待ちわびている人も、この世界のどこかにはいるのだろうか。

 しかし俺にはそれがわからない。何故なら、俺は戦地で全ての記憶を失ってしまったからだ。