目が覚めたそこは野戦病院だった。血と硝煙と泥の臭いがすることと、自分の名前もどこから来たのかも、何故ここにいるのかも何一つわからないということだけがはっきり感じとれることだった。
頭に酷い怪我を負った俺は、目が覚めた事さえ奇跡的だったと後から知った。助け出された時に側に落ちていたジャケットの裏地に書いてあったらしく、俺は登澤勇という名前なのだと聞かされた。そう言われたところでその響きや文字から思い出せる事柄はなにもなく、ただぼんやりと、そうか俺は登澤というのかと、初めて言葉を覚えた子供のようにそれを受け止めるだけだった。
そうこうしているうちに戦争はあまりに呆気なく終わりを迎えてしまった。傷も大方癒え動けるようになった俺は、軍の情報によればこの町に住んでいたはずだと言われるがままに、何一つ覚えのない街に帰ってきた。
街中どこを訪ねても、俺のことを知る人は見つけられなかった。出征前に住んでいたはずの街ならば自分の記憶が無くともいつか誰かが自分のことを見つけてくれるかもしれないと淡い期待も抱いたが、頭の怪我とともに受けた右半面の火傷のせいで容貌も変わってしまっていて、道行く人々に気味悪がられるのが関の山だった。
最近は初めから誰も自分のことを待ってなぞいなかったのではないかと思い始めていた。逢いたいと思う人も、出征前にやり残した事も、初めから自分には何一つ存在していなかったのではと思った。そう割り切ってしまえば、明日の見えない毎日も少しは楽になる気がした。
あの男に病院で声をかけられた時、ずっと待っていたと言われた時、動揺すると同時に嬉しかった。自分が忘れているだけでもしかしたらと一瞬期待してしまった。
彼はいつか弟に会えるだろうか。雪のちらつき始めた寒空の下、ふとそんな事を考えた。
「検査結果は良好です」
医者は素っ気なく言った。
「顔の火傷痕は処置が遅れたせいもあり生涯残るでしょうが、感染症の徴候はありません。もう通院しなくて結構ですよ」
天候によっては痛みや痒みが出ることもあるでしょうが、強く擦ったりしないように。医者は口早にそう説明しつつ、カルテにさらさらと何か書き加えていた。
「俺の記憶は、」
「そればかりはなんとも……怪我だけでなく、戦中の精神的な要因も関係しているかもしれません」
やはりこればかりは病院で治せるものではないらしい。いつか何かの拍子に全てを、もしくは時が経つにつれ少しづつ思い出すかもしれませんよ、と気の毒そうに医者は言った。
帰りに何か買わなければならないものはあったかと考えつつ受付の前を通り過ぎ、いつものように看護婦に会釈し玄関を出ようとして、ふと窓辺の椅子に意識が向いた。
あの日と違い、椅子は無人のままだった。あの男はなんという名前だったか――たしか、小波津と呼ばれていたか。
受付で尋ねるとあっさり教えてくれた。小波津佳人は病棟の突き当たりの部屋の入院患者だった。
教えられた部屋のドアは開いていた。廊下から伺い見ると、少し背を起こしたベッドに沈み込むように横になった男が窓の外を眺めているのがわかった。
足音が聞こえたのか、男はふわりと顔を向けた。あの日と同じ黒曜石の瞳が俺を捉える。
「あ、この間の……」
男は俺を覚えていたようだった。どうぞ、と言われるがままに俺は部屋に足を踏み入れた。
「あの日は、すみませんでした……少し、混乱していたらしいのです」
男は目元を細めて緩く笑んだ。ひどく儚げな、弱々しい笑い方だった。
「あなたの背格好が、弟と似ているような気が、して……ッけほ、けほッケほ……ゼホ、ゼホっゼホゼホゼホ…こホ、せふ……っ」
話しながら男は咳いた。痩せた胸から紡がれる咳は響きこそ弱いものの苦しげで、ひとつ吐きだす度に聞こえるひゅうひゅうと木枯らしの吹くような音が、彼を内側から消耗させていくようだった。
はぁ、と男は短く息を吐くとぐったりと背をベッドに預け、ぜぃぜぃと喘ぐ胸を鎮めるように手を置いた。疲れの滲む瞳がぼう、と虚空を見上げ、それから俺をもう一度見て微笑みかけた。
「よろしければ、お名前を教えてはいただけませんか……?」
人と長く話をしたのはいつ以来だっただろうか。世間話のような取り留めのないことだけを話すつもりが、気がつけば戦地で記憶を失ったこと、帰ってきたこの街で自分を知る人にただ一人として出会えないことを話していた。
滲むような優しげな瞳の前では不思議と胸にしまっていた思いが、不安が口をついて出てしまうのだった。彼はただ黙って俺の話を聞いてくれた。気の毒にとも、絶望せず頑張って生きろとも言わずに、穏やかな笑顔のままただ時折小さく頷いているだけだった。
気がつけば、真上にあったはずの太陽が随分と傾いていた。
「誰かとこんなにも長く話をしたのは、久々でした。とても、楽しかったです」
よかったらまた来てくださいますか。帰り際、彼は少し寂しげに言った。
「俺も久々に楽しい時間だった。こちらこそ、また訪ねてもいいのかい」
「ええ、勿論です。いつでもどうぞ」
部屋を出る俺に、彼は小さく手を振った。細い手指が窓からの西日を受けてきらきらと柔らかく輝いていた。
その夜は久々に穏やかな夢を見た。母親の腕の中で眠りにつくような、温かい腕に守られているようなそんな幸せな夢だった。