帰り花を待つ - 4/4

 最後は出会いと同様、突然に訪れた。 
 彼が病院から忽然と姿を消したと知らせを受けたのは、重い牡丹雪の舞い散る夕方のことだった。 

 とても出歩ける体調ではなかったのは知っていた。弟を待ち続け、心身ともに壊れきった彼は死に場所を探しにいったのだ。
 いつか話した、兄弟の秘密基地。きっと彼はそこに行くつもりなのだと思った。
 そこに行っても弟には会えない。けれど壊れた彼にはそれはもうわからないことなのだ。弟に会いたい一心で、身を起こすことさえ精一杯のはずの体のどこかに残されていた最後の力をかき集めてひとり出ていったのだ――
 最後の希望を繋いでやれるのはもう自分しかいない。偽りでもいい、俺は今日この瞬間に彼の弟になるのだ。俺は迷わず彼の後を追った。

 彼の生家は街の外れにあった。今はもう誰も住んでいない家はぼろぼろに朽ち果て、割れた窓から雪が吹き込んでぼろ切れのようなカーテンを揺らしていた。主の消えた荒れ果てた家屋はそこかしこに人の住んでいた形跡を残したまま、静かに誰からも忘れ去られる時を待っているようであった。
 ふいにくらりと目眩のような感覚が俺を襲った。
 俺は、この家を知っている。突然にそう思った。壊れかけた戸の横にかろうじてぶら下がっている「小波津」の表札も、穴の空いた壁の向こうに見えるかつて居間であったと思われる部屋も、一度も見たことはないはずなのになぜか知っていると直感した。まるで彼の弟の意識が自分に降ってきているような感覚だった。
 家の裏手から森に向かって、雪の上にはまだ新しい足跡が残っていた。途中何度も転び、膝をつき、咳き込んで血を喀き――そんな様子をありありと思わせる足跡は、白い雪に点々と散った赤はふらふらとよろめき、力尽きそうになりながらそれでもどこかへ揺らがぬ意志で向かっていた。
 足跡を追って一歩、一歩と進めば進むほど、頭痛を伴う目眩は強くなっていった。その度に俺は間違いなくこの場所を知っていると確信していった。彼にここの話を聞いたからではなく、それは俺自身の中から引き摺り出されていく記憶だった。

 雪はいつしか粉雪へと変わっていた。降り積もったばかりの雪をざくりと踏みしめ、俺はついに湖のほとりに出た。
 足跡はそこで途絶えていた。森の奥深く幻のように開けた、何一つ音のしない一面の銀世界だった。
 湖に降り注ぐ粉雪の音さえも聞こえてきそうな静寂の中に彼は仰向けに倒れていた。両手を大きく横に伸ばし、全身で雪を受けるようにして――そのまわりにはいくつもいくつも、真っ赤な牡丹が零れ落ちて大輪の花を咲かせていた。
「あ、あ」
 その光景を理解するよりも先に、濁流のように脳内に何かが流れ込んできた。映像が、音が、匂いが、指先を何かが撫でる感覚が、声が、銃撃と爆発の衝撃が、痛みが、恐怖が、叫びが、旋律が、そして誰かの笑顔が――
 目眩と頭痛の中で、誰かが俺に呼びかけていた。ゆきひろ、行博と呼ぶ声はこの世の何よりも優しくて、温かくて、いつも自分の傍にあったもの。
 いつも自分を呼んでくれた、その人は。
「佳人、兄さん……?」
 
 全てが鮮明に蘇った。取り戻した記憶の先で笑っていたのは、小波津佳人、俺のたったひとりの兄だった。
 俺は転がるように兄に駆け寄った。雪に半分埋もれた体を抱き起こし、声の限りに叫んだ。
「兄さん、佳人兄さん、俺だ、俺だったんだ……!」
 佳人は目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
 あの日も雪が降っていた。戦地に赴く前、熱があるというのに佳人は玄関先まで出てくると、痩せた身体のどこにそんな力があったのかと思うほどの強さで俺を抱きしめた。
「行博、必ず帰ってきて……信じていて、どこにいても、私がきっと守るから」
 はっきりと思い出せる。回した腕に感じた兄の細い背の固さを、熱っぽく汗でじっとりと濡れた体温を、着物に染み付いた薬の匂いを――
「とざわ、さん……?」
 腕の中で兄は微かに身じろぐと、うっすらと目を開けた。その目は俺を弟としてではなく、登澤勇として見ていた。
「違うよ兄さん、やっと思い出した、俺は登澤勇じゃない、小波津行博だったんだよ、」
 黒曜石のような瞳はぼんやりと焦点を散らしたまま、光を灯さない。
「兄さん、兄さん……帰ってきたんだ、思い出したんだ、だから、だから……!」
 兄は何も言わない。ひゅう、ひゅうと弱い呼吸音が次第に遠くなってゆく。蝶の羽ばたきのような鼓動が止まろうとしている。
 ごぼ、と胸が鳴る。ぜふりと喀き出された生暖かい血が冷えた頬を首を伝い、足元に散って滲んで溶ける。
 これは罰だ。待って待って、ついには本当の弟を前にしてもわからなくなるほどに壊れてもなお微かな希望のひとかけらを胸に待ち続けた兄を手酷く裏切った、自分への罰だ。
「佳人兄さん」
 俺はその身をきつく抱きしめた。折れそうなほどきつく、あの日兄が自分にしてくれたように。
 このままもう二度と、離れないように。

「ゅ、き……ひ、ろ……?」
 声とも呼べぬほどのささやかな響きが、確かに俺の耳に届いた。
「兄、さん、」
 佳人の瞳が真っ直ぐに見上げていた。それは紛れもなく弟を見る兄のものだった。
「おかえり、なさい」
 佳人は微笑んだ。そしてそのまま、静かに目を閉じた。

 幻のような景色の中、ふわりはらりと儚い結晶が舞い落ちては降り積もる。
 最後の羽ばたきが雪に溶けて消える音を、二人だけが聞いていた。