帰り花を待つ - 3/4

 あれから、週に一度は時間をつくって彼に会いに行くようになった。
 彼はいつもあの病室でひとりぼんやりと窓の外か天井を見ていた。俺の姿を認めるといつもふわりと微笑んでこんにちは、と迎え入れてくれたが、ひとりでいる時の彼はひどく危うげに見えた。虚空を見上げる瞳はどこにも焦点を合わせていないようでもあり、どこかずっと遠く、誰にも理解できない何かをじっと見つめているようでもあった。
「ずっと昔、まだ弟も私も幼い頃、生家の近くを探検したことがあって……家の裏手、森の奥に小さな湖を見つけて、それからはそこを兄弟の秘密基地にしたんです」
 彼はよく昔の思い出話をした。過去の記憶の何もかもを失ってしまった自分には話せることは何もなかったから、俺は初めてこの部屋を訪れた時に彼がしてくれたように、いつも黙ってただその話を聞いていた。
「夏のある日に弟とそこで遊んで……湖のほとりではしゃいで、二人ともずぶ濡れになって。帰ってから私は熱を出して寝込んでしまって、弟は両親に大層怒られて……
 言葉の合間にクふ、けほと小さな咳が混ざる。少し話す度にはぁはぁと胸を喘がせ、痩せた胸を苦しげに上下させる彼は、日に日に話す体力さえも失っていくようだった。
「今日はもう、休んだ方がいい」
 瞳が潤んでいる。肩に手をやると、少し熱っぽいようだった。
「あなたが来ると、いつも、少し……けホッけほ少し、饒舌になってしまう、ようです」
 彼は苦しげな呼吸の合間になんとかそれだけ言うと目を閉じた。気道が細ってうまく酸素が吸えないのか、はたまた肺か心臓がうまく機能していないせいなのかはわからないが、どんなに肩を上下させて呼吸をしても薄い唇は紫がかったままに小さく震えていた。
「ッは、は……せヒュ、きヒューーーー…………ヶェほケホゲホゲホッッぜヒィィィっ、ぜゴッ、ぜゴぉぉ、ゴほッゴホ……ぜォ、ゼォ……ぜロロロロ………
 骨の形が手に取るようにわかるほど痩せた背を擦っても、少しでも呼吸をしやすいようベッドの角度を調整しても彼の呼吸は嫌な響きを孕んだまま、胸を押さえる白い手は冷たいままだった。
 それでも彼は薄い瞼を少し上げ、苦しさの滲む瞳でこちらを見ると微かに笑った。理由はわからなかったがそれだけで少し救われたような気がした。

 彼は日に日に弱っていった。
 ただぼんやりと過ごす時間が増えていき、彼の話す内容はよくわからないものばかりになっていった。現在と過去が混ざり合い、初めて会った日のように俺を弟と間違えて取り乱す時もあった。
 最初のうちは混乱してしまった事を自覚しているようだったが、次第にそれも曖昧になっていった。俺を幼い弟だと思い込んでまるであやすように話しかけたかと思えば、次の日には当たり前のように俺を登澤だと認識して話し始めたりした。彼は静かに着実に壊れていっていた。
 壊れていったのは精神だけではなかった。身を起こすだけの動作で胸を喘がせ、口を開けばぜィゼィと荒い喘鳴が溢れ出し、酷い時には息も継げぬ程咳き込んで血を喀いた。 

「ゼホ、ゼォンゼォンゼホッッ……行博……ぜゴォ、ぜゴ……ゴホっゴッゴッゴッ……ゆき、ひろ……
 触れた額は高熱を発していた。切れ切れに呼ぶ名前は俺の名ではなく、ここにはいない弟のものばかりになった。
「どこ……ゼェホッゼホゼホゼぇホゼホッ、ゼホッはやく、帰ってッ……ッきヒィ、キヒーーーー……っは、っ、、ッヒ、せひュッ、せヒ……
 薄く開いた唇はわなわなと震え、閉じた目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。それは酸欠の苦しみによるものだったが、弟を思って泣いているようにも思えた。
「いやだ、やだ……けホッこふ……置いていか、ないで……!」
 彼はふらふらと手を宙に突き出した。彼の視線の先には今まさに彼の目の前から去りゆく弟の姿が見えている、そんな仕草に見えた。
 彼は弟の後を追いたいのだ。いつまでも帰ってこない弟が先に向かったかもしれない道の向こうへ、手を伸ばして――
「ここに、いるよ」
 俺は虚空に伸ばされた手を咄嗟に握った。
「兄さん、大丈夫。ここにいるよ」
 思わず口に出してしまった言葉にはっとする。弟のふりをするなんて最低だと思った。それでも、彼を今この場に繋ぎとめておく方法をこれ以外に思いつけなかったのだ。
「ゆき、ひろ……行かな、で……
 今日の彼は俺を弟だと認識しない彼だった。今日だけはあの日のように、俺を弟だと間違えられたならよかったのに。偽りの安らぎでもいいから安心して彼が眠りにつけたならいいのに。自分がもし本当に彼の弟だったなら、きっと彼をこの世に繋ぎとめていられるのに――ふとそんな事を思ってしまった。
 でも自分は弟ではない。ただの記憶喪失の寂しい男だ。寂しさに耐えかね、優しくしてくれた彼に縋りついただけの哀れな男だ。
 俺は彼の手をそっと離した。布団に力なく落ちた手は初めて会った日よりもなお痩せて折れそうなほどに痛々しかった。
 

 帰り際、受付の側を通りかかってたまたま耳にしてしまった。
 彼はもう、あと保って数週間の命だろう。