名残の空 - 1/2

 除夜の鐘が聞こえる。心地よく、魂に雪に深く染むような音に先生はふわりと目を開け、窓の方に首を向けた。
「あ、始まりましたね」
 敷布を細い指先がゆるゆると掻く。身を起こすのに手を貸すと、ありがとうございます、と少し笑った。
「これを聞かないと、一年が終わった気がしないでしょう」
 背にあてた毛布の高さを調節してやりがてら、偶然を装って背に触れてみる。布団の温みに少し湿った着物越しの体温はまだ常より高いままだった。
 数日前からの冷え込みに風邪をひいた先生は、もう三日は寝込んでいた。今朝方ようやく高熱ではなくなったもののまだ微熱が続いていて起き上がれる状態ではなく、毎年実家で両親と過ごす年の暮れも今年は諦めて教室で年を越すらしかった。
 兄さん、と控えめな呼びかけとともにするりと障子が開き、遠慮がちに直次が部屋に入ってくる。
「直次……家に帰ったと思っていました」
「夕餉は向こうで食べましたよ。何となく、年越しの瞬間は兄さんの近くで迎えたくて」
 ありがとう、とやけに素直に喜びを口にする先生に照れ臭くなったのか、直次は笑みとも不機嫌ともとれるような妙な顔で、そこでは窓に近すぎて寒くないですか、行火はいりますかとぎこちなく世話を焼こうとした。
 遠く鐘の音が響く。間の長い音が響き終わるまでに、カチ、コチ、と気ぜわしく硬い掛け時計の秒針の音が何度も繰り返し耳を打って、妙に気がはやるようだった。
 先生は緩く目を閉じた。布団の上に組まれた手に時折力が篭るのがわかる。
 少し顔を俯けた直次もまた、先生の組まれた手元を見ている。この小さな、直次と先生と自分の三人のいる部屋に、目に見えない何かが漂い次第に一所に集まってゆくような感覚がした。
 想いの集まる先にはいつも先生がいる。彼はそのことに気がついているだろうか。

 はやる音に耐え切れず壁の時計を見上げた。ちょうど針が真上で重なったところだった。
「明けまして、おめでとうございます」
 声の先で先生が笑っていた。どこかほっとしたような笑顔だった。
「明けましておめでとうございます。……今年もよろしく頼む」
 これだけ毎日顔を突き合わせているというのに今更かしこまって挨拶するのも妙な心地だが、不思議と温かな気持ちになる。
「直次。明けまして、おめでとうございます」
直次は伏せていた顔をゆるりと上げた。その目には純粋な喜びが宿っていた。
「兄さん、明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
 掠れた咳が言葉の合間に零れ落ち、目元は未だ少し赤い。それでも、先生は心の底から嬉しそうに晴れやかに笑っていた。