名残の空 - 2/2

 除夜の鐘も鳴り終わり、新年を迎えた祝福が静かに夜を包みはじめた頃。
「少し、腹が減らないか」
 寝付けないらしい先生の部屋を訪れた、手の中には湯気のたった椀がひとつ。
「これは……蕎麦すいとん、ですか」
「ああ。この辺りでは昔からよく食されていると聞いてな……この間池沢先生に作り方を教えて貰った」
 布団の側に小卓を引き寄せ、出来立てでまだ熱い椀をそこに置く。身を乗り出すようにして手を伸ばした先生だったが、その指先が揺れているのに藤倉は気がついた。
「待った、それじゃ危ないだろう」
「先程飲んだ薬のせいで、指が震えてしまって……椀を持ち上げなければ大丈夫です。無作法ですみません」
 細い指が匙をとる。やはり危うげに揺れるのを見て、藤倉は堪らず口を出した。
「ちょっと貸してみろ」
 先生の手から匙を取ると、熱い汁物に差し入れ、二、三度かき混ぜる。ひと匙すくって自分の口元に寄せ、熱すぎないことを確かめると、黙って先生に差し出した。
「え、いや、そこまでしていただかなくても大丈夫ですから」
「見てて気が気じゃない。……ほら」
 子どもじゃないんですから、と狼狽える先生にいいから冷めるぞ、と尚も言うと、やがて諦めたように笑った。敷布に手をつき身を寄せ、肩が触れ合う距離で差し出した匙にゆっくりと口をつける。噎せこまないようにゆっくり飲み込んで、おいしい、と思わずといった風に呟いた。
「それは何より。重湯ばかりじゃ回復するもんもしないだろう」
「ええ、これなら食べられそうです……藤倉さんはもう召し上がりましたか」
「池沢先生とご一緒させてもらったよ。このあたりの蕎麦はうまいな」
「歴史ある味ですからね。もう少し南方の地域では、もっと盛んに食べられているとか」
 もう一口、いいですか。囁くように先生が言う。
「今度私にも、作り方を教えてくださいね」
「ああ。先生と違って教えるのは下手だが、そこは許してくれよ」

 いつの間にか雪がちらつき始めていた。
「初日の出、拝めるでしょうか」
「どうだろうな……ま、降り続いたところで白銀に輝く元旦を迎えるんだ、いいんじゃないか」
 それも綺麗でいいですね、と先生は笑う。
 雪がしんしんと積もりゆく。部屋の隅に置かれた火鉢が暖かな音をたてる。先生のどこか嬉しそうな横顔を、いつまでも眺めていたい夜だった。