「蒼月」
まだここではないどこかを見ている。そろそろ引き戻さないと危ない。
「蒼月。もういい」
夢から醒めた瞳に色が宿る。ひとつふたつ瞬きをして、ようやく視線が交わった。
「……悪い、部屋を汚した」
やや掠れた声で呟いた蒼月は、ぼんやりと己の手を見下ろした。無理に点滴を引き抜いた前腕から流れ落ちた血が床に点々と滴模様を描いている。常用する薬の影響で止まりにくい血は刺入部からいまだ滲み続けていた。
「謝るならそこじゃない。お前なあ、それひとつ刺すのに俺がどれだけ苦労したと思ってるんだ」
気が抜けたついでに本音がこぼれた。一度で取れずにヤブだなんだと揶揄されるのにも慣れたが、万年低体温低血圧貧血気味なうえ、繰り返した注射のせいでいよいよ刺せるポイントがなくなりつつある此奴の難易度が桁違いなのだということもわかってほしい。
「おや、それは悪いことをした。何せ緊急事態だったもんで」
「別にお前が介入しなくてもどうにかしてた」
「だろうな。けど手っ取り早かっただろ」
軽く笑いながら、蒼月は気怠げに壁に背を預けた。表情には余裕が見えるが、立ち回れる体調でもないのに無理に動いたせいで上がった息が整わない。何度か掠れた咳を溢し、胸を軽く叩いている。
「なるほどな。あいつら、これ見て目の色変えたのか」
腕に散ったいくつもの注射痕を眺めながら彼は興味深げに呟いた。確かに理由を知らぬ者が見たら薬物常習者だと思うだろう。彼の顔色の悪さもその誤解に拍車をかけていた。
「密造してるだけあって、そのヤバさはよく知ってるってわけだ。笑えねえな」
徐に白い指が肘窩を圧迫する。無駄に血を流し続ける傷口をどうにかしたいらしい。色の悪い爪先に、また貧血が悪化しているなと思う。対症療法ではとっくにどうにもならなくなっている。手術もできず下っていくのをただ傍観するしかないというのはどんな感覚なのだろう。狂わないでいられる理由がわからなかった。
「それもあるだろうが、普通にお前の殺気に中てられただけだろ」
「あ? 別に本気じゃなかったが」
「だから余計に怖えんだろうが」
幾人もの血を吸った業物だけがもつ、静寂のうちに放つ凄みのようなものを彼もまたその身に抱きつつある。隠しようのない破滅と暴力のにおいは、彼に生きる術を叩き込んだ師が纏っていたものと似ている。
「ああ、怠い……」
蒼月は首を軽く回すとゆっくりその場にしゃがみ込んだ。片手で目元をおさえてじっとしている。発作を起こしかけているわけではないようなので放っておくことにした。あまり構い過ぎるとこの医者嫌いは余計に不機嫌になって診療所に寄りつかなくなる。人に慣れぬ猫を手懐けるのには根気がいる。
「動きたくない」
「当たり前だ。少しでも眠れるように鎮静剤を混ぜてた」
それであれだけ立ち回れるのだから末恐ろしい。ほとんど本能的に体が動くのだろう。
「余計なことを……道理でやたらとふらつくわけだ」
「面倒ごとは片付いたんだ、もう少し休んでいけ。薬が抜けきる前に動くな」
「それがそうもいかないんだよなあ」
蒼月は顔を上げぬまま、ドアの向こうを指さした。
「あんたの仕事はまだ残ってる」
奥のベッドに逃亡者が寝かされていた。このごたごたの間に逃げ果せたものと思っていたが、裏口まで行くには蒼月のいた処置室を通り抜けることになる。気配に鋭い彼が闖入者をみすみす通過させてやるわけがないのは考えずともわかることだった。
「突然飛び込んできたから咄嗟に捕まえたらそのまま気絶した」
蒼月は若干ばつが悪そうにした。少しは責任を感じているらしい。
「お前がとどめを刺したってわけだ」
「人聞きが悪い。何もしてねえよ」
「わかってるよ。お前が優しいのは知ってる」
「そりゃどうも」
優しさついでに応急処置はしておいた、と投げやりに言う。
「見たところ何箇所か折れてる。そのまま死なれちゃ寝覚めが悪いんで最低限の止血と固定はしたが……」
「相変わらず雑だな」
「だから、あんたがきっちりやり直してくれ」
俺はいいからこいつを診てやれ。自分の仕事は済んだとばかりに蒼月は数歩下がると、そのまま壁に凭れた。まだ軽く目眩でもするのか目蓋をおさえている。
子供は散々に痛めつけられていた。これくらいの年齢でこれだけ傷を負ったら普通は気持ちが先に参って動けなくなるところだが、余程強い精神力の持ち主なのか。幼い体には執拗な虐待の痕も見て取れた。蒼月が無駄に殺気立ったのはこのせいかとようやく理解する。己の過去と思わず重ね合わせたのだろう。
「なあ。……またキツいもん見たんだろ」
壁際から動こうとしない蒼月は聞いているのかいないのか、反応を返さない。彼の持つ類稀な記憶特性には負の側面もあり、フラッシュバックがその最たるものだった。
「こんな言い方じゃ響かないってのはわかってるんだが……たまには弱音吐いたらどうなんだ。でないとあまりに可愛げがない」
トリガーはある程度予想がついても、いつどこで遭遇してしまうかはわからない。精神的なものだから投薬で簡単に解決できることでもない。
「わかってんなら下んねえこと言うなよ。大したことじゃない。馬鹿馬鹿しい悪夢を見ただけ」
もう忘れた、と蒼月は軽い調子で言う。その声は少し掠れていた。この世界に身を置く限り逃れられない血の色に深く両手を染めてなお、正常であろうと藻掻いているようでもあった。
やめてしまえばいいのに。全部捨てて縋ればいいのに。どうしたってそうなれないのが彼の哀しいところであった。
「その『お荷物』、ここに放置されても困るだけだろ。処理しておいてやるからそのかわりガキから治療費は取るなよ」
子供がくすねてきた鞄を拾い上げ、蒼月は慣れた手つきで中を検分していく。雑にまとめられた紙幣の束を数えつつ、何かに目を留めヒュウと小さく口笛を吹いた。
「おまけつきだ。ちょうどこいつが欲しいところだったんだよなあ」
蒼月は悪い笑みを浮かべた。何を見つけたかなど訊かずとも大体わかる。
「遣うなよ」
「こいつをダシにお話ししたい相手がいるだけだ。そこまで落ちぶれちゃいないさ……今はまだ。そのときがきたら、一番苦しまない方法で殺してくれ。あんたならできるだろ」
帰って寝直す。それだけ言い残し、蒼月は捲った袖を戻すと髪を縛り直して、足音もなく裏口から出ていった。
せめてその腕に包帯だけでも巻いてやればよかった。小さな後悔はいつも遅れて訪れるのだった。
