短編 Nightcrawler - 1/2

 繰り返すがその要求は承諾しかねる。頼むから今日のところは帰ってくれないか。
 暴力で圧しきることしか知らない若者の、ラジオノイズめいた挑発を努めて冷静に突っぱねる。決して同じ土俵に立たず、しかし無下に対話を打ち切るでもなく。良識ある大人の対応というのは思いのほか精神力を遣う行為だ。
 いいかい、これは親切心から言っているのであって決して挑発ではないんだが、私は君達よりだいぶ年上なんだ。君達が産声を上げるずっと前からこの街にいてこの仕事をしている。つまりね、君達より余程多くのものを見てきているんだよ。そんな私が今日のところは退けと言っているんだ、素直に聞き入れるのが身のためだとは思わないか。
 テープレコーダーのように繰り返し発し続ける己の声が重ねるごとに取り繕いようもなく刺立っていくのを自覚して、しのはらは心底うんざりした。大人などやめて今すぐ身の程をわからせてやろうかクソガキ。
 組織というのは大きくなればなるほど厄介事が増えるものだと相場が決まっている。責任も未来も等しく中空に放り出していた若かりし頃とは違い、世間に対してそれなりな影響力を持つ組織に属する者となった今は忍耐も当然責務のうちであるからして、独りよがりに諍いの火を放ったり禍根の種を植え付けたりは許されない。そのことに然程の苦労は覚えてこなかった。世間一般的な尺度で測ったことはないが、すぐに頭に血が上る性分ではないと自認している。あくまで裏社会に属する人間の中では、という註を必要とするかもしれないが、この際些末なことは脇に置いておくとしよう。とにかくそんな気質に加えて、思い出すのも嫌になるほど数多のものを見聞きしてきた結果、大抵のことには動じなくなった。というよりどうでもよくなった。いちいち真剣に腹を立てたり動揺したりしていたら精神が保たない。鈍くなることであらぬ声を聞いたり薬物に溺れたりすることなく還暦過ぎまで図太く生きてきた。
 とはいえ聖人君子ではないので我慢にも限度がある。飽きもせずきゃんきゃんと吠え続ける躾のなっていない野良犬二匹を前にしてかれこれ五分と少し、終わりの見えない問答にもそろそろ疲れてきた。じりじりと堪忍袋の緒が焼かれていくのを感じる。切れる前に去ってくれ、頼むから。内心の願いは届かない。それでももう何度繰り返したかわからない言葉を努めて穏やかに返す。言い分はわかったから帰ってくれないか、君達の上の者とは直々に話をするから……精神という名のレコードに再生限度があるとするならばとっくに擦り切れ朽ち果てているだろう。聞くに耐えないノイズを撒き散らし続けるのが人生だというのならあまりに虚しい。

 やくざ崩れの新興団体で雑用鬱憤の捌け口性欲処理その他有象無象の汚れ仕事を一手に引き受けてきた子供が叛逆し、火事場の馬鹿力で衝動的に金庫番を殺して金品を鞄にありったけ詰め込み逃げたという。野良犬共はそれを追ってシマの外にまで出向いてきたという次第らしかった。素人の子供ひとりにあっさり殺されるような金庫番に、訊かれてもいないのに部外者に洗いざらい説明してしまう脳味噌の足りない猟犬。放っておいても早晩潰れる組織だろう。相手にする価値もないのだが、無駄に角が立つあしらい方はしたくない。
 渦中の子供はついさっき階段を半ば転げ落ちる勢いでここに飛び込んできた。掃除したばかりの床にぼたぼたと真新しい血痕を残し、一切の迷いなく奥に続くドアを蹴り開けて消える。疾風怒濤の勢いに呆気にとられるうちに全ては終わっていた。これが本気の襲撃だったらやられていたなと遅れて思う。相手が小柄だったから一瞬躊躇したのだ。
 交わしたのは一瞬の視線のみ。酷く怯え、同時に驚いているようにも見えた目つきから考えるに、恐らくここがこのあたりで唯一のまともな診療所であることや、それゆえ緩衝地帯として機能していることは知らずに飛び込んできたのだろう。永遠に覚めぬ悪夢のような袋小路に絶望し、藁にも縋る思いで掴んだ幸運か、勘の鋭さだけは一級品なのか。どうせ行くあてなどないのだろうし、無事に逃げおおせたらうちの用心棒見習いとしてスカウトしてやってもいいかもしれない。
 しかしそんなことは今どうでもよかった。闖入者のせいで厄介事に巻き込まれている。重要なのはそれだけだ。
 後からどかどかと踏み込んできた野良犬共は余所のシマを荒らす作法など知らず、言うまでもなく礼節の類も持ちあわせていない様子で、ここに逃げ込んだのはわかっているんだ奥を調べさせろと執拗に言い募ってくる。来たのは確かだがもう裏口から出ていっただろうなどと懇切丁寧に教えてやる気はさらさらなかった。この建物には表の他に勝手口代わりの裏口がひとつと、薬棚をどかした下に跳ね上げ戸があって地下経由で外に繋がっているが、それを知るのはごく限られた人間だけだった。仮に露呈したところで、常に生成と消滅を繰り返す悪食の怪物の腹の中のようなこの街のつくりを正確に把握できる人間は恐らくいないだろうから大した問題にはならないが(中には一度見ただけで階層から通路の数までほぼ完璧に記憶できるとんでもない奴もいるにはいるが規格外なのでカウントしない)、部外者に秘匿するに越したことはない。
「この診察室だけならともかく、余所の人間に洗いざらい見せるわけにはいかない。危険な薬品を扱っているし、手術に使う部屋は清潔を保たねばならないし、替えのきかない医療器具の類もある。なにより病人が休んでる。好き勝手に踏み荒らされちゃ困る」
 こんな言い草で聞き分けよく帰ってくれるわけもない。追っ手の二人は体ばかり鍛えてきましたと言わんばかりの風体で、それぞれ手にした獲物を見せつけるように右へ左へ持ち替えている。
「話のわかんねえジジイだな」
「聞く耳を持たないのは君達の方だろう」
 これは埒があかないというやつだ。どれだけ誠意を込めて言葉を重ねても響きはしないし、事態は快方へと向かわない。二人は頑固な老いぼれ医者を殴り倒して気が済むまで家捜ししようと画策しているだろう。頼むから黙って出ていってくれ。手ずから仕事を増やしたくない。どこを狙ったら一撃で命を奪えるかを熟知しつつ、そこを避ける思考を巡らす心労をわかってほしい。こんな街で暮らしておきながら言えたことではないが、可能な限り暴力沙汰は避けたい。賭けるに値しない諍いで命を散らすほど虚しいことはない。
 もう一度だけでも説得を試みようか。それでも駄目ならもう大人など辞めてやる。虚しさ半分口を開きかけたときだった。

「ああ、うるせぇな」
 すぐ後ろで低い声がした。ぎょっとして振り返る。いつの間にかドアが開いていた。微塵も気配を感じなかった。
「お前らほんとうるさい」
 解いたままの長い髪が揺れる。凪いだ瞳が覗いていた。無感動に、無表情に目の前の出来事を傍観している。闇夜を食った静けさに息を呑む。結局こうなる気がしたから長引かせたくなかったのに。内心の叫びは届かない。
「余計な口を挟むな。いいから寝てろ」
 無言で隣に立った蒼月に小声で言う。横目でその表情を窺って嫌な予感がますます加速した。どうもやたらと苛立っているらしい。彼にしては珍しいことだった。これくらいのことなら手出しせず、人が汗をかきつつ下手な対処をするのを面白がって物陰から眺めているような奴だ。
「そっちこそ余計なお世話だ。退いてろ」
 緊張が走る。声音だけでわかる。これは相当に不機嫌だ。殺気こそ放ってはいないが、気怠く力を抜いているようでいてその意識は既に部屋の隅にまで張り巡らされている。今やこの空間全てが彼の物だった。
 邪魔だと言わんばかりに蒼月は前に進み出た。通り過ぎざまそっと右腕に触れてくる。袖の内にメスを隠し持つことを見抜かれている。あんたが手を汚すことはない。彼はそう言っているのだ。
「殺すなよ」
 孕む気配に危ういものを覚えて思わず囁いた。今の彼はどこかおかしい。目の前と彼岸を重ね見ている。区別がつかなくなったが最後、諸共引き摺り込まれそうだ。
 追跡者達は前触れもなくもうひとり現れ、しかもそいつが異様な気配を放っていることに一瞬怖じ気付く様子を見せたが、退くことはなかった。
 互いの出方を睨み合う。静寂が蠢く。蒼月はしばらく相手を眺めていたが、やがて興味を失ったとばかりに両手をパーカーのポケットに突っ込んだ。
「何が目的かは大体聞いてたがやめておいた方がいい。このじいさんはこう見えて相当やり手だ、あんたらが束になってかかってきたって相手にもならない」
 試してみるか? 蒼月は半分笑いながら言い放った。こいつめ穏便に事を収めてくれるどころか挑発しやがった! 何てことをしてくれると焦ったがもう遅い。しかし時既に遅かったのは相手の方だとすぐに気づいた。
「病人は黙ってろよ」
 売り言葉に買い言葉で、ひとりが挑発に挑発で返した。
 蒼月は無言で軽く首を回し、それから微かな笑い声をたてた。空気がざらりと塗り替えられる。蒼月は両手を落とした。筋張ったその手には何も握られていない。それでも椎原には銀の燦めきが見えた。研ぎ澄まされた殺気に中てられて追跡者の目の色が変わる。だがもう遅い。
 不機嫌なこいつに一番言ってはいけない言葉をぶつけたな、哀れなる野良犬共よ。椎原は初めて相手に同情した。

 予想通り勝負は一瞬でついた。勝負とすら呼べない一方的な憂さ晴らしだった。
 数歩の距離を目にも留まらぬ速さで詰めた蒼月は、相手が遅れて突き出したナイフを上段蹴りで手首ごと正確に撃ち抜くと、そのまま合気道の要領で反対の腕を絡め取り前に引き倒した。後頭部を床に打ちつけ脳振盪を起こした相手の手足が弛緩する。それでも容赦なく鳩尾に膝を捻じ込んだ。
 背後に回り込んだもうひとりが鉄パイプを振りかぶる。打ち下ろされたら間違いなく致命傷を負う――思わず声が漏れそうになる。しかしその軌道を蒼月は風切り音だけで正確に読み切った。体を半回転させ相対する。目の前に迫る凶器に顔色ひとつ変えず、逆手に握ったナイフで応戦した。まともに打ち合ったら当然負ける。斜め下から滑らせるようにして衝撃を殺す。金属同士が擦れる甲高い悲鳴と火花が散った。
 軌道を逸らされたパイプが床を打つ。ガラ空きになった胴に真正面から体重を乗せた蹴りを叩き込む。一撃で壁まですっ飛んでいった男は意識こそ保ったものの立ち上がることすら叶わない。脱力した男の胸座を掴んで引き起こす。頸動脈に刃毀れした切っ先が向けられる。
「まだ続けるか?」
 低い囁き声。しんと静まり返った診察室に響いたそれは襲撃者――今となっては被害者だが――の戦意を破壊し尽くすのに充分だった。
 二秒、三秒、沈黙が場を支配する。「殺すな」の忠告はちゃんと届いていたらしい。安堵の息を吐く。もしも彼が本気ならこの程度では済まない。
「おい、もう離してやれ」
「いいのか? 喉元過ぎればなんとやらだ、自由にしてやったらすぐにでもあんたを襲うかもしれない」
 それならいっそ、今ここで。蒼月は手首をほんの少し返し、ナイフにゆっくり圧をかける。薄い皮膚が裂けて一筋の赤が伝い落ちた。動きを封じられた男の目が恐怖に見開かれる。
「やめろ。余計な仕事を増やしてくれるな」
 表情を見ていればわかる。彼はただ鬱憤を晴らしているだけだ。気の狂った嗜虐趣味でもなし、こんなつまらないことで無駄に命まで奪いはしない。
 蒼月は溜息を吐いて腕の力を抜いた。それでもまだ緊張は解いていない。物騒な殺気はこっちの肝まで冷えるからそろそろ引っ込めてほしい。
「寛大な先生に感謝しろよ」
 声を契機に呪縛が解ける。放り出された男は気絶した仲間を引き摺って、命からがら夜の中へ消えていった。