糸雨、朧を与ふ - 2/2

 先導されるがままに入った店でさし向かって座る。店内に他の客の姿はなかった。柱時計の規則的な秒針の音が微かに耳を打つ。高瀬はメニューも見ずに珈琲を注文すると、時折手を温めるようにカップに手を伸ばしつつぼんやりと窓の外ばかり見ていた。
「あの、ご存じないとは思うんですけど。僕、高瀬さんの後輩なんです」
 学科は仏蘭西フランスじゃなくて英吉利イギリスですけど。そう言うと、高瀬の視線が漸くこちらを向いた。
「在学中に何処かで会ったかな。ぼくはお仲間のところにはほとんど顔を出さなかったのだけれど」
「いえ、丁度卒業された年に僕は入学したので、お会いしたのは先日が初めてです」
 ずっと読んできたから初対面のような気がしないけれど。内心は胸にしまい込んだ。連載で彼を知ってから学内の校友誌その他を片端から漁ってみたが、ごく親しい数人で出したと思われる小規模なものにいくつかの作品を見つけられるくらいだった。こんなにも稀有な才能を持ちながら、連載を得るまで本当に無名も無名、埋もれるどころか世に出てきてすらいなかったのだ。
「ぼくにとっては今日が初対面の心地だけど」
 くすりと悪戯っぽく笑って高瀬は言う。口にしなかった本心をあっさりと暴かれた心地がして鼓動が早まった。
「すみません、突然お引き留めしたりして」
「構わないさ、暇してたから」
 高瀬はまた窓の外を見遣った。軒下で黄昏れていたときから、彼の目は常にここではない何処かに向けられているかのようだった。何か気になるものでもあるのだろうか。はたまた見えぬものを追っているのか。
「詩の題材を探していらっしゃるんですか」
「そう見えるかな」
 視線をこちらに戻すと高瀬は言った。暖かい店内に移動してしばらく経つのに、その顔は相変わらず寒そうに抜けるような白さである。ふとかの有名作家の肖像が脳裏を過った。ひょろりと背が高く痩身の、飄々とした表情。風貌は似ても似つかないが、どこか近しいものを感じた。
「人の言葉を借りて言うならば……心象スケッチ、というやつなのかなと」
 高瀬は少し笑った。仕方がないな、と窘めるようにも見えた。
「別に。修羅の十億年など端から見通すつもりもなければ、この目に写るものを記録しようというつもりもない」
 独り言のように高瀬は呟いた。その言葉は外に向けられたものではなかった。
「的外れなことを言いました」
 構わないさ、と高瀬は繰り返す。それきりまた会話が途切れてしまった。ふいに彼は軽く咳き込んで、手の甲でそっと口元をおさえた。季節の変わり目で風邪でもひいているのかもしれない。
 彼は自分に微塵も興味がないのだ。それがありありとわかってしまった落胆に二の句が継げなくなっていた。その証拠に、彼は一言もこちらに話を振ろうとしないではないか。彼と話せたら、関係を築けたら、その詩作や思想の欠片に触れられるのではないかと勝手に期待していた。思い上がりも甚だしい。気前よく分けてくれるはずもなく、そもそも分け与えられるようなものではない。おこぼれを貰って一体どうしようというのか。
 まるでわかっていなかったと思い知る。一端にすら触れさせてもらえない。つまるところ門前払いだった。つらい。叶うならば今すぐ逃げ出したい。認めてもらおうなどと、それこそ十億年早かったのだ。
「ちょっと失敬」
 椅子を引く小さな音が落ちる。ふらりと高瀬は立ち上がると、そのまま店の奥へと消えた。便所にでも行ったのだろう。存在の圧からようやく解放されて思わず溜息が溢れる。居たたまれなさにいよいよ顔を上げられなくなってきたところだった。
 精神の涼を求めて窓の外を見る。細かな気泡の混じった硝子の向こう、未練がましい霧雨にけぶる街がある。濡れた通りを自転車が轍を避けて行く。その後ろから大荷物を積んだ荷馬車がえっちらおっちらと追いかける。反対側からきた、くたびれた学帽を被った学生達が談笑しながら行き過ぎる。矢張り高瀬が何を見ていたのかわからない。見ようとして見えるものではないのかもしれない。
 かの作家は末期の目という一文を遺していった。高瀬のそれも、あるいは似たようなものではないのか。己の思考の着地点に薄ら寒い心地がした。あの寂寞は一体何処からくるのか。人の身の存在し得ないところから無理矢理に引き摺り降ろしてくるものではないのか……。
 秒針の音がまた気になりはじめた。かれこれ十分近くが過ぎたが、待てど暮らせど高瀬は戻ってこない。さては愛想を尽かされ置き去りにされたかと思ったが、椅子の背に上着が掛けたままなのでないだろう。便所ついでに煙草でも買いに出たのだろうか。しかし外に出るなら目の前を通り過ぎるはずだから、いくら上の空でも流石に気づくはずだ。
 朧気な不安が大きくなってきた。しばし迷ったのち、席を立って奥へと行ってみる。
「高瀬さん?」
 くらがりへそっと声をかけたが返事はない。恐々と近付くと何のことはない、便所には誰もいなかった。まるで化かされたかのようじゃないか。自分は何に怯えていたんだ。困惑を持て余し気味にうろうろと周囲を見回す。途端背後の鏡にゆらりと何かが過ったように見えて振り返った。そこには目を見開いた猫背の自分が立ち尽くしている。動いたのは己の影だ。無駄に跳ねた鼓動を宥めるべく大きく息を吸う。
 少し頭を冷やそう。そう思い蛇口を捻った。水流に嫌な汗でべたつく掌を浸す。急に全てが馬鹿らしく思えてきて、溜息とともに項垂れた。
 排水溝に渦を描く水が僅かに赤い。
 ぎょっとして手を引っ込める。慌てて指先を確かめるも、何処も傷ついてはいなかった。さらさらと流れゆく音が妙に頭に響く。流しの黒ずんだタイルに点々と鮮やかな血の雫が落ちていた。そのせいで水が染まっている。どうしてこんなところに、そう思う間にも糸が解けるように排水溝に吸い込まれていき、やがて悪夢の片鱗は跡形もなくなった。
 逆巻く風が飛び込んできて、便所の先の勝手口がバタンと大きな音をたてて閉まった。どうやら半開きになっていたらしい。夢遊病のようにそちらへ足が向かう。早鐘を打つ心臓は最早制御がきかない。呼吸が煩い。よせばいいのに、閉じたドアに恐る恐る手をかけた。
 開いた先は狭い中庭になっていた。建物に張り付くように作られた植え込みの新芽に細かな雫が鈴なりになっている。濡れた沓脱石に片足下ろし、何気なく左右を見回して、
「……高瀬さん?」
 数歩離れた木陰にしゃがみ込む背中があった。
 返事はない。何か様子がおかしい。高瀬はこちらに背を向け、左手を頭より少し高いところで壁についている。
 一歩、二歩と歩み寄る。濡れた草のにおいが立つ。上擦った微かな呼吸の音が耳を掠める。縋る細い指先が真紅に染まっているのを認めて、どきりと胸が鳴った。
「高瀬さん!」
「……声が大きい」
 顔を上げぬまま高瀬は言った。やや掠れていたが存外しっかりとした声だった。
「誰か呼びますか」
 浅く上下する背に触れてもいいものか迷う。冷や汗と霧雨に濡れたうなじの下、細い首筋の陰影から目が離せない。
「平気だ。……もう、落ち着いたから」
 壁についた手をゆるゆると離し、高瀬はその内に鋭い咳を溢す。喘ぎ喘ぎ、痛々しく息を継ぐ様につられてこちらの呼吸まで浅くなった。腰を上げかけた痩身が柳のように揺れる。倒れる――しかし思わず伸ばした手は届いたかどうかのうちに中空を掻いた。猫のように身を退かれて、掌には空虚な冷たさが残った。
 手の内の赤を握り込み、高瀬は薄い胸を軽く叩く。
「嫌なところを見られたな」
 唇の端に僅か残った血は熟れすぎた果実のように赤々としている。ばつが悪そうに高瀬は呟くと、手の甲でそっとそれをおさえた。血濡れた手をまるで不思議なものでも見るように矯めつ眇めつしている。取り繕いようがないと半ば諦めた風でもあった。
「高瀬さん、それ……」
「見なかったことにしてくれないか」
 薄い笑みを浮かべて高瀬は言った。穏やかに要求しているようだがこれは命令だ。それさえわからないほど鈍くはなかった。しかし混乱と怯えに支配された脳は碌に思考せぬまま言葉を吐き出してしまう。
「それ、まさか肺を病んで、」
 瞬間ぞくりとする圧が襲い掛かってきた。静寂を湛えた瞳に真正面から射貫かれて、出かかった次の言葉は喉の奥で音を奪われた。
 それ以上続けるな。凪いだ眼差しの奥で激情がひるがえる。無言で頷きを返すのが精一杯だった。一秒、二秒、確実に息の根を止めたか見定めるような無言の静圧が呼吸を押し潰す。目を逸らせない。息もできない。
 もう耐えられない。そう思った瞬間高瀬の視線が外れた。どっと入ってきた酸素に喘いで息をする。全身の汗が寒い。思わずへたり込みそうになって膝に手をついた。笑えてきそうな程に震えている。
 許してもらえたのではない。自分は今、殺された。
 興味を失ったとばかりに高瀬は何も言わず、横を通り過ぎて店内へと戻っていった。
「あ、あの、高瀬さん、」
 金縛りに縺れる足を無理矢理動かして後を追う。高瀬は何も答えず、流しで手を洗い、口元を濯ぎ、それからようやく顔を向けた。
「なに」
 色の白い肌が薄暗い廊下にぼんやりと浮かんで見えた。血色のない頰はよくできた人形のようで、その温度の無さに本能的な恐怖を覚える。
「い……え、なんでも、ないです」
 高瀬の指先からぽたりと透明な雫が落ちる。手首の骨ばった細さに病の気配を見た。
 血を喀いた動揺は微塵も感じられなかった。きっと慣れているのだ。こんなことを何度も繰り返しながら、彼は言葉を拾い続けてきたのだ。それこそ文字通りその身を削って。その凄まじさに今更ながらに血の気がひいた。その詩に初めて出会った日の感覚に似ていた。あれは死の息吹に触れた怖気であったのだと漸く思い知った。
「今日はもう帰るよ。またいつか機があれば話そう」
 非礼を詫びるように高瀬は柔らかく言った。今しがたまでの冷たい気配は何処かへ消えている。それは穏やかな拒絶だった。ああ、金輪際彼と会話を交わすことはないのだろう。何故かそう思った。

 

 雨の気配の遠ざかった寂しい夕暮れの中へと歩き出す。高瀬は駅へ行くつもりなのか、西日の差す方へと足を向けた。
「高瀬さん。僕は寄るところがあるので、このあたりで」
 目的地は同じ駅だったが、これ以上共に居るのは精神が耐えられそうになかった。高瀬はひとつ頷きを返すと、立ち止まることなく四つ辻を渡っていく。
 いつかその背を迷いなく追える日がくるだろうか。きっとないだろうと思う。思ってしまった時点で自分の文学は負けたも同然だった。この世界に正解も勝ち負けもないなんて嘘だ。それは常に己の中に燦然と、或いは暗鬱と横たわっていて、一度白日の下に晒されたが最後死ぬまでつきまとい、隙あれば首を絞めようと狙ってくる。創作者は自身の築いた迷宮の中で白骨化するまで彷徨うしかない哀れな存在だ。誰しもが迷う。迷っても絶望しないでいられるのは、極北の星をひとつ見定めてひたすらに歩める者だけ。その肉体が朽ちる瞬間まで光を見上げていられる求道者だけだ。
 それを人は、書くように生まれついたと呼ぶのだろう。

 そのまま去りゆく後ろ姿を見送ろうとしたときだった。気まぐれな旋風がどっと吹き寄せてきて、盛りを過ぎた沿道の桜の木が花片を雨あられと降らせた。薄紅色の風は春の現し身となって、雨上がりの街を踊りながら駆け抜けた。
「あ」
 辻の真ん中で立ち止まった高瀬は、風に呼応するように空を仰いだ。
(はるの、ゆきだ)
 逆光に眩む世界の中、薄い唇がそう動いた。一瞬の春の中に終わらぬ冬を見た詩人の眼差しはどこまでも透明で美しかった。
「神谷くん」
 ふいに名を呼ばれて呪縛が解ける。少し癖のある長めの髪を風に遊ばせて、高瀬がこちらを見ていた。
「定まらぬ心なしに文学はやらない方がいい。流されるだけだ」
 それだけ言うと高瀬は背を向け、今度こそ振り返らず通りの先へと歩いていった。時折咳いているのか小さく肩が揺れる。その姿が見えなくなるまで、神谷はそこに立ち尽くしていた。

 

 結局連載は不定期のまま、一年と保たず淡雪のように消えてしまった。次に拾ってくれる文藝誌を探す片手間に始めた、縁故採用の航空関係の仕事が戦争機運で俄に忙しくなり、気づけば全く書かなくなってしまった。書かなくても生きていけると気づいてしまった。白夜の暮らしに星は上がらず、一度見失った光は二度と還らなかった。或いは初めから幻を見ていたのかもしれない。
 しかし神谷が筆をくよりずっと早く、高瀬は星屑のような詩をいくつかだけ遺してこの世を去ってしまった。あの春の日から僅か半年後のことであった。長く肺を病んだ末に力尽きたと端的に告げる数行の報せは新聞の三行広告よりもひっそりと味気なく、雑誌の片隅で新刊告知の間に半ば埋もれていた。