二日に一度は早瀬の部屋を訪ねている。桜の盛りは短い。次の雨で終わりを迎える前に描き残しておきたかった。
早瀬は寝台の上にいた。おう、来たな、と軽く手を上げる。その声はざらざらに掠れていた。
好きに使いな、と椅子を指す。言葉の終わりが咳に変わって、彼はぜいぜいと胸を喘がせた。
「ゼ…ッお、ぜォッげホぜゥ……ッ、ぜェ――ッ、ぜ、ォえ、ぅ」
「大丈夫ですか。看護婦を呼びましょうか」
「い、ぃ……っぜェ、ぇおッぜぉ、ぜェ、は――ッ、は、 ぁ、ああ」
あまりに苦しげな様子に思わず足を止める。いつもさっぱりとしている彼が、こうも人目を憚らず咳くとは。
「わりぃ、な」
枕を立てて背を起こしていたが、咳に体を震わせる度に体勢は崩れていった。
「ゼぇ、ッ゛う、――ッ゛、ぜぉッぜぉぜォゼぉォッ、げォッごホ、ぜゥ―ッ、 ぁ、」
癖になった猫背はそのせいか、と思わせるほどに体を縮こまらせ、ついに胸元に拳を置いてほとんど蹲るまでになってしまった。
「写生はまたにします。調子の悪いときにお邪魔してすみませんでした」
「い……から、ッぜほ、ぜぅ――っ、は……いいから、遠慮すんな」
「でも」
「明日、にも、散りそうだ。なあ、次は、ないかも、だろ」
早瀬は遣る瀬ない目をして言った。まるで彼自身のことを言っているようでどきりとした。
「―ッ゛、ゼぉッぜほげほゲほ、ぜェお、ォ゛お、ぜぇェお、ッ゛ぇお、 ぅ」
肺が裏返るような咳に、早瀬は目を見開いた。胸元で固く握りしめていた手を咄嗟に口元にあてがう。
「早瀬さん!」
ぅえ、と背を波打たせ、彼は嘔吐した。手のひらで受け止めきれなかった吐物が細い指の隙間をこじ開けるように伝って落ちる。
ポケットに入っていた手拭いを咄嗟に渡す。彼はそれをひったくるように奪うと、嘔吐く声を殺して口元に押しつけた。
「ぜぉォ、ぜッ―ぅえ、ォ゛…ッえ、っふ、ぇふっ……ッは、ハ、っは、…っ、ハ、」
朝から何も口にしていないのか、吐いたものはほとんどが水分で、間近で目にしてもこちらまで気分が悪くなることはなかった。
「早瀬さん、大丈夫です、ゆっくり呼吸して。大丈夫、ちゃんと息吸えてます」
咳と嘔吐きが治まってもまだ震えている背をゆっくりと擦る。落ち着いた対処をしようと意識しながらも、心臓は馬に蹴られたかのようにばくばくと打っていた。
「っは、ッ、は――…わる、汚し、」
「そんなのいいですから。もう気分悪くないですか」
早瀬はひとつ頷いた。くしゃりと握り潰した手拭いを寝台横の木桶に投げ、そのままぐったりと身を横たえた。異常な呼吸音が耳につく。
「水をもらってきます。着替えも――」
吐物で濡れた着物の衿元に目を落として、僕は思わず言葉を失った。
はだけた着物の下に骨の浮いた胸が見える。そこには引き攣れた古傷の痕がざっくりと真一文字に刻まれていた。
「……ああ、見えちまったか。悪い、忘れて、くれ」
視線に気づいて早瀬は片手で雑に衿を直した。しかしもう、僕の目裏には赤黒いミミズ腫れのような痕がくっきりと刻まれていた。
「空襲で、焼夷弾の破片を浴びてね」
疲れた声で早瀬は呟いた。
「弟はきっとこんなものではなかった。弟はきっと、もっと苦しんで、炎に焼かれて――」
夢うつつに溢れた告白は、肺を嬲る咳よりも苦しげだった。
「生きてたら、お前とちょうど同じ歳だった」
早瀬の眇めた右目から涙が溢れた。窓の向こうで散りかけの桜がさやさやと鳴る。つうと頬を落ちた涙は、髪のあわいに吸い込まれていった。
