逆月の淵

 揺らぐさざめきが耳の後ろをすり抜ける。ふと集中の波の途切れたところに、それはさらさらと柔らかく染み入った。
 宿の裏手にある小さな川の音だ。しばらくの逗留のうちにすっかり馴染んだが、ここに来て二日ほどの間は、衣擦れのような耳慣れぬ細音に夜中朧に目を覚ましたりもしていた。
 昨夜の雨の影響を受けて水量が増しているのか、今日は少し早く大きく、耳の奥に心地良く澄んだ色彩を落とす。音に身を預けたまま見上げた雨戸の端には雨の名残が光っていて、ぼんやりと眺めていると煮詰まった思考が徐々に晴れゆくのを感じた。
「先生、あまり無理はなさらないでくださいよ」
 淹れたての茶を右手に、もう片方に茶菓子を乗せた盆を持ち、無作法ながらも器用に足で引き戸を開けて入ってきたのは、こちらも今ではすっかり見慣れた顔の出版社の男だ。
「書き上げるまで東京に帰しはしないとカンヅメにしたのは誰だったかな」
「そりゃ語弊ってもんですよ。面倒な来客や引っ切り無しの取材に先生の貴重な時間を奪われないために、こうして宿を手配させて頂いただけのことですわ」
 事実、筆の進みも結構なご様子で。いっそこのままここらに転居なさったらどうです? こういうところ、お好きでしょう。男の調子のいい声に曖昧な笑みと相槌を返しながら、ああそうか、遠回しに療養を勧められていたのだ、とようやく合点がいった。
「この際、益か害かはひとまずとして……私の書くものは、この世に何かをもたらすのだろうか」
「当たり前じゃないですか。益か害か? 益ばかりですよ。長屋の貧乏学生も万年暇を持て余す商家の旦那も、みな先生の小説を待っているんです。先生の連載のために新聞を買っていると言ってもいい」
 噺家のようによく口の回る男の言うことなぞ、表層だけのご機嫌取りに過ぎないのはわかっていた。しかしそういう連中を一番苦手としていたはずが、どうもこの男だけは他と違い、言葉に棘を感じることなく許せるのだった。これが編集者としての才があるということなのだろうか。
「私の書くものなぞ暇潰しに過ぎないのだよ。全ては長く退屈な人生の暇潰し、ほんの一時の気慰め」
「ではその広漠たる人生に清流を注ぎ込める先生は、大したお人ということにはなりませんか」
 まあ次から次へと淀みなく言葉が出るものだ。いっそこの男がものを書いた方が売れるのではないかとさえ思った。
「貴方はよほど人をその気にさせるのが上手いとみえる」
「それが仕事ですからね。しかし先生はそうと見破っておきながらもきちんと書いて下さる。編集者としてありがたい限りですよ」
 それじゃあ、ごゆっくり。男は軽く一礼すると出ていった。
 暮れかかった日が揺蕩う部屋に、男の着物についていた煙草のにおいが幽かに残った。東京で慣れたにおいも、緑の気配の強いここでは異質な存在になるのだとふと気がついた。

 人生が全て暇潰しならば、さしあたって私の潰すべき暇は目の前の原稿用紙のマス目だ。
 書き出すことそれ自体にさほど苦労はしない。長年使い込んだ万年筆はもはや手の内に無い時の方が落ち着かないくらいであるし、文字にするべき事柄は二つの目と耳だけではとても追いきれないほどに溢れている。
 一度ペン先を紙に触れさせれば書き出すまでの思案は消える。内側から聞こえる声をそのまま淀みなく手に伝えて、書きつけて、ひとつづきの帯にして。私の身体は声と筆記具の中媒でしかなく、そこに意思の介在する余地はない。無意識の狭間に身を浸す瞬間が最も心地良いのだ。
 しかし傲慢な自意識は往々にして異を唱え始める。違う、ここはこうではない、こんな回りくどい言葉はいらない。ペンが止まり、淀みはインクの染みをつくり、たった今まであんなにも美しいと思った言葉をあっさりと塗り潰していく。
 世界はもっと単純にできている。例えばさっき聞こえていた川の流れる音。決して主張せず静かに身体に流れ込み、しかしたしかに鼓動の裏に存在を刻みつけている。存在さえも無意識の中に溶け入るような、手のひらでつかまえておくことのできない柔らかさ。もっと言葉がほしい。まだ足りない、この世の暇潰しにはもっと言葉が必要なのだ。延々と書き連ねて、繋げて、埋め立てて……
 ぽたりと雫が手の甲に落ちた。またひとつ、今度は原稿用紙の端に落ちて試し書きの跡を滲ませた。汗でよれたインクの青滲みの中に、雨上がりの細道に朧に浮かぶ逆さ月を見た。

……せい、先生!」
 ぐいと袖を引かれる。煩いな、今ちょうど景色が見えたところなんだ、邪魔をしないでくれ。瞼の裏に一瞬散った仮象を繋ぎとめるのに忙しいんだ。
「先生、駄目です! 息を、息をしてください」
 何を言っているのかわからない。見つけた景色が水の中にあったから、呼吸を止めて潜ってみただけのことだというのに。いや、そもそも呼吸をしない方がおかしいのか。肺の奥まで水を満たして初めて、あの流れとひとつになれるのだから――
「先生!」
 私を外側から呼ぶのは、誰だ?
 
 呼吸が縺れる。本能的に強く吸い込もうとして、ひゅうと喉が鳴った。
……ッげほっ、かはッッ! っグ、ぅッ、げほ、げほげほッぜぅッ……っ」
 苦しさに思わず首元に手が伸びる。熱いなにかが胸を満たしている。吐き出してみれば、それは冴え冴えと赤い色をしていた。
 インク瓶をひっくり返したかのような赤が原稿のマスを埋めていく。それは爽快な眺めだった。あんなに書きたかった淀みない流れが一瞬で作り出せることにようやく気付かされた思いだった。
「先生、しっかりしてください! 今医者を……ああだめだ、ここから一里はかかる」
……今、いいところ、なんです」
 文筆家である以上、文字で伝えられなければ意味がない。この景色を今そのまま文字にできなければ、ここにいる意味がない。
「何を言うんですか! ……ああ、これだからやめた方がいいと言ったんだ! 肺に穴の空いた病人に新聞連載を書かせるなんて、どうかしてる」
 赤く染まった原稿を忌々しげに遠ざける編集者の手が見えた。取り上げられては堪らないと、私は彼の手に縋りついた。
「書かせて……くれ」
「あんた、馬鹿なのか! 何があんたの命を縮めてると思ってるんですか! その原稿、次から次へと舞い込む連載依頼、賞賛と期待と批判と嫉妬と――全てがあんたを殺そうとしてるんだ。そんなくだらないもののために人生擦り減らしていいわけがない」
 くだらないもの。そうか、貴方の目にそれはくだらないものとして見えているわけか。
 ならば伝えてみせよう。私の目に映った、耳に届いた景色のありのままを見せられるように。そのためにはペンが要る。書き慣れた手と道具と、どこまでも潜っていける精神が要る。 
「暇潰しで死ねるなら、本望だ」
 血濡れた手とペン。ここでしか、私は生きられない。