魔法の言葉

 無意識の間をすり抜けて零れる咳がいよいよもって思考を阻害してきて、ああ、まだ治らないのかとうんざりする。
 週末をまるっと台無しにしてくれた風邪は予後も含めて中々にタチの悪い代物だったようで、夜になると酷くなる咳が日常生活を妨げるようになってもう一週間ほど経つ。季節外れのインフルエンザを疑うほどの高熱も、何もかも投げ出して布団の一部になりたいような全身の怠さも病院で処方された薬を飲めば数日でなくなったが、この咳だけは長引いていた。
 一度意識してしまうと次々こみ上げてきて止められない。胸の奥から吐き出すそれはぜろぜろと喉に引っかかり、骨を伝って鼓膜に響いて予想以上に体力を奪う。身を折って咳き込むうちに喉の奥に妙な臭いがまとわりついて、ああこれはもう一度医者にかかるべきだろうかとぼんやり考えた。
 繁忙期だというのに仕事に支障をきたしているのも周囲に心配をかけ通しなのも悩みの種だったが、一番に案じているのは兄のことだった。二つ年上の兄である真紀まさきは生まれつき重度の喘息を抱えている。季節の変わり目やちょっとした刺激で重い発作を起こすことも稀ではなく、風邪をひくだけで入院沙汰になりかねない。何が何でも兄にうつすわけにはいかないと、治りきるまではなるべく家に帰る時間を遅くして食事も外で済ませてくるようにしていた。結果としてそれが風邪を拗らせる原因になってしまっていることに気がついてはいたが、他にどうしろというのか。
「げほっげほッげっほげほ、ぜぅッっは、ぜほッげほ、ごほッ
 咳で呼吸が阻害されるというのはこんなにも苦しいものなのか。唇を紫色にしながら平気、まだ大丈夫と口にする兄の姿を思い出し、怒りとも悔しさともつかない思いが湧き上がる。苦しみをわかったつもりでいるだけで、その実本当の痛みや恐怖は何一つ理解していない自分に腹が立った。

樹生たつき、大丈夫? 入ってもいい?」
 コンコン、と控えめなノックの音に続く小さな声。これだけ派手に咳き込んでいれば隣の部屋まで丸聞こえだったのだろう。
「兄貴、いい……っ、もう寝る、からっげほ、げほッ! げほっげほ、ぜほッッ
 ドアの向こうまで届くように大きな声を出したのがいけなかった。続く言葉の代わりに喉を裂いて吐き出された咳に酸素を奪い尽くされて、一瞬目の前が暗くなる。無意識に胸をおさえて身を折って、止まらない咳を抱き込むように浅い呼吸を繰り返した。
「樹生、入るよ」
 ドアが開いて、廊下の冷たい空気を頬に感じた。華奢な手が背の真ん中に伸びてきて、宥めるように上下に擦る。泣きじゃくる子どもをあやすような手つきに導かれて、そのまま床に膝をついた。
「苦しいね……ゆっくり吸って、吐いて……うん、上手、上手」
 学校で嫌なことがあって泣きながら帰った日、試験で赤点を取った日、風邪で寝込んだ日。心が弱っている時に聞く兄の優しい声はいつも心強くて、少しだけ胸苦しい。兄を支える強い弟であり続けられないことが悔しくなる。真紀はいつだって頼れる兄でいてくれるのに。
「兄貴、やめろ、って……うつったら、げほッ……苦しむの、兄貴の方だろ」
「今苦しいのは僕じゃなくて、樹生だから。気持ち悪くはない?」
「ない……
「胸が痛いとか、息が吸えないとかは? 僕の声、ちゃんと聞こえる?」
「大丈夫、きこえてる」
 ただの風邪だ、そんなにおおごとじゃない。そう言いかけて気がついた。ただの風邪でも兄にとっては命に関わることもあるのだと。風邪をひいただけで気持ち悪くて胸が痛んで、意識が飛びかけるようなことがあるのだと。
「ベッド、いこうか。つかまって」
 もう落ち着いたから大丈夫と言ったのに、兄はベッドの側までついてきた。そのまま横になろうとするとちょっと待って、と止められる。
「少し背を起こした方が呼吸がしやすくなるから」
 枕の下にクッションを差し入れて、これでよし、と真紀は呟いた。
「たまには、兄らしいことさせてよ」
 頼りない兄で申し訳ないけれど。眉根を下げて不器用に笑う真紀に何と言えばいいのかわからなかった。
 弟が弟でありたいと思うのと同じように、兄もまた兄でいたいのだ。真紀を兄にすることは、弟の自分にしかできない。それはとても幸福なことだと樹生は思った。
……ホットココア、飲みたい」
 樹生の言葉に、真紀は少し驚いたようだった。なんだよ、兄らしいことしたいって言ったのは兄貴の方じゃないか。子どもみたいなおねだりをしたのが恥ずかしくなって、樹生は思わず顔を背けた。
「任せて」
 兄は嬉しそうに微笑んだ。ぱたぱたと軽い足音がキッチンの方へ遠ざかっていって、しばらくするとお湯を沸かす音が聞こえてきた。
 温めたマグカップにティースプーン三杯のココアとひとさじの砂糖を入れて、少しのお湯で粉っぽさがなくなるまでよく溶かして。膜ができない程度に温めたミルクをかき混ぜながら注ぐ時には魔法の一言「おいしくなあれ」。仕上げに蜂蜜を入れるのが樹生の好みで、真紀はシナモンパウダーが好きだった。昔母さんによく作ってもらって二人で飲んだ、懐かしい味。 開いたドアの向こうからかすかに聞こえた、「おいしくなあれ」。柔らかい兄の声に、久しぶりの穏やかな眠気がやってきた。