願い事ひとつ - 1/2

 赤い服を着た幸福の配達人の謎が解けたのはいつの頃だっだだろう。正確な時期は覚えていないが、真実を知ってがっかりすることはなかったというのは覚えている。サンタには悪いけれど、会ったこともない北欧のおじいさんにプレゼントをもらうより、いつでも優しくて強くて、身体が辛くて涙がこらえきれない時にはずっと側にいてくれる両親からの贈り物の方が俺にとっては何倍も嬉しいものだったからだ。
 今年からは俺がみなとのサンタさんになりたい。そう両親に告げたのは中学生になる少し前くらいだった。健やかな夢を見る弟の枕元に綺麗にラッピングされた包みを置いて、音を立てないように忍び足で部屋を出て。リビングで待っていた両親と顔を見合わせてくすくす笑いあったことを、湊はきっと知らないだろう。
 弟のサンタになれることは誇らしかった。入退院を繰り返してばかりでほとんど遊んであげられない自分でも、ちゃんと兄になれるのだという喜びもあった。身体が自由になるうちは続けていこうと思っていた。俺の人生はきっと、人よりずっと短い。遠からず訪れるであろう永遠の別れの前に、悲しみに打ち勝つための幸福な家族の思い出をひとつでも多く残したかった。

 高校生になった弟のサンタを務め続けるのは中々難しい。思春期の男子高校生の欲しいものを把握するのは骨が折れるし、遅くまで勉強していることも増えて、プレゼントを届けるタイミングを見計らうのにも苦労するようになった。幼い頃は部屋を同じくしていたから誤魔化そうと思えば簡単だったが、この年になって深夜に弟の部屋でこそこそと動き回る言い訳は流石に存在しそうにない。
 音を立てないようにそっとドアを開ける。これが一番緊張する瞬間だ。まだ起きていたなら、ホットミルクはいかが? なんて声をかけて誤魔化すつもりだったが、幸い部屋はもう暗く静かになっていた。
 湊はあまり眠りが深い方ではない。枕元まで忍び寄るとさすがにばれてしまいそうで、机の上に小さな包みをそっと置いた。ここでは慌ただしい朝には気がついてもらえないかなと少し思ったが、携帯電話やノートが置かれたままなのを見る限り、起きたすぐには気がつかなくても出かける前には目に入るだろう。
 喜んでくれるだろうか、笑ってくれるだろうか。プレゼントを開ける弟の顔を想像してみる。このところまた身体の調子が芳しくないせいで湊の出かける時間には起きられないことが多く、包みを見つけた直後の気恥ずかしげな表情は見られなさそうだった。湊が笑っていてくれるなら、その笑顔を自分は見られなくてもいい。そこまで綺麗に諦めをつけられるほど、強くはなれそうになかった。
 部屋を出る前にもう一度、穏やかに眠る弟の顔を盗み見る。幼い頃の湊は床でもソファでもとにかくどこでだってすぐに寝入ってしまう子で、寝顔なんて飽きるほど眺めていられた。それも大きくなってからはすっかりご無沙汰で、こうしてまじまじと見つめるのは久々だった。
 高校に入ってから始めたテニス部の影響か、最近は随分としっかりした体つきになってきたなと思う。いつの間にか身長を越されていたのは正直相当悔しかった。それでも寝ている時の表情はまだまだあどけなく、こうして眺めていると幼い頃の面影が頬のあたりに見えてくる。
 背は伸びても、日焼けをしてたくましくなっても、やっぱり湊はいつまでだって俺の弟なんだなあ。頭頂部からぴょんと一房跳ねている髪をくしゃりと撫でてやりたくなって伸ばしかけた手を、起こしてしまうと慌てて引っ込めた。
っ、こほッ
 不意に胸をぐっと押されたかのような違和感に噎せた咳が出る。一度零れたら咳き込むつもりはなくても勝手に次々胸の奥から湧き上がってきて、思わず口元を軽くおさえた。
 んん、と湊が寝返りをうつ。このままここで咳き込んでいたら起こしてしまう。
 咳の衝動をやり過ごしながらドアノブを静かに下げる。身体の違和感に気が焦って、スリッパの爪先がドアに当たってこつりと小さな音を立てた。
「けほ、けェほ……っくふ、けほ
 弟のサンタになりたいというささやかで小さい願いすら、生まれつき脆弱な心臓は許してくれない。夜更かししたことを責め立てるかのように胸の奥がざわついてくる。ざらざらとした違和感が不意にずきりと重い痛みに変わり、ひゅ、と喉の奥が鳴った。
ッ、く」
 すっと背筋が冷たくなる。頭が一瞬ぼうっとして、壁についた手の感覚が遠くなる。まずいな、と思う間にも膝から力が抜けてかくりと折れる。
「兄貴……?」
 後ろでドアの開く音。少し眠そうな声が聞こえたが、どくどくと不規則な拍を刻む心臓が五月蝿くてよくわからなかった。
「兄貴、大丈夫か」
 背に温かい手の感触。上下にゆっくりと擦られて、つっかえそうになっていた呼吸が漸く少し通る。
「ごめ……平気っ、は……けぇほッゼぇっ、く、ぅ」
「キツいなら夜中だって構わないから、起こしてくれって言ってるだろ……タクシー呼んだ方がいいかな」
「ん……大丈夫、ちょっと急にきて、びっくりしただけ、だから」
 鋭い痛みは一瞬のことで気分の悪さも少し遠のいたが、は、は、と短い呼吸が治まらない。転ばないようにゆっくりと膝に力を入れると、頼りない体を支えるように湊が肩を差し入れてきた。
「ごめん、ありがと……
「謝らなくていいから。早く横になった方がいい」
 これじゃサンタ失格だな。貧血と酸欠でぐらつく頭でそんなことを考えていた。
 来年サンタが来なくなったら、湊は悲しむだろうか。もう子どもじゃないからサンタは来なくなったのだと、特に悲しむこともなく受け入れるだろうか。
 
 大人になってしまった俺の願い事は聞いてくれないかもしれないけれど……サンタさん、俺にはひとつだけ欲しいものがあります。まだ湊を子どものままでいさせてあげたいのです。だからどうかもう少しだけ、湊の側にいられる時間を俺にください。