ふと目が覚めた。見慣れた部屋は黄昏色に薄明るく染まっていた。
物音がしない。愁也は身を起こさないままでそっと耳を澄ませてみた。やはり何の音も聞こえなかった。
恐る恐る自分の身体を確かめてみる。呼吸に嫌な音はしない。怠さもない。ふらつかないようにゆっくりと上体を起こすと、随分と身体がすっきりしていると感じた。どうやら体調は安定しているらしかった。
ふいに何かの気配を感じて机の方を見た。長年使い慣れた机と椅子――そこには奈保子の姿があった。椅子にやや斜めに腰掛けて、机に向かって何かを読んでいる。
奈保子、と声をかける前に彼女はぱっと振り返って、兄さん、目が覚めたのね、と花のほころぶような笑顔を見せた。不思議とそこに奈保子がいることに疑問を抱くことはなかった。
「兄さん、おはよう」
「おはよう、奈保子」
奈保子は立ち上がると、ベッドの端まで歩いてきた。その手にはあの書き上げることのなかった手紙があった。そこにありありと残る赤黒く変色した染みに、ああこれは夢ではないのだと思った。
「奈保子、それ」
「書きかけのものを読むなんていけないことだとは思ったんだけれど……ごめんなさい、つい気になって見てしまったの」
「それ、まだ……何も……」
「?」
まだ何も書いていないはずだった。書く前に発作を起こして倒れてしまったのだから。
実際奈保子の持つ便箋には血の染みがそこかしこについているだけで、まだ何も書かれていないように愁也には思えた。しかし奈保子にはそこに何かが書かれているように見えているらしく、それを読んでは少し悲しそうに微笑むのだった。
「私思うの……もしも兄さんが私に会いに来なかったとしてもね、いつかは私が兄さんを探して会いに行っただろうって」
だから、兄さんだけが気に病むことはないの。奈保子は真っ直ぐ目を見て言った。
「だから、今度は私が兄さんを迎えに来たの。一緒に行きましょう」
「一緒にって……どこへ」
「外へ。全てのものから自由になるの」
奈保子は目を輝かせて手を差し出してくる。愁也は思わずその手を取ろうとした。取ろうとして、いまだ彼女のもう片方の手にある手紙に目がいった。
「奈保子、その手紙には何が書いてあるの」
「何って、これは兄さんが私に書いた手紙でしょう。兄さんが私に連れて行って欲しいって書いたから、私こうして来たのよ」
――ああ、そういうことか。
愁也は自分の心がゆっくりと凪いでゆくのを感じた。差し出された手を前に、静かに首を横に振った。
「? どうして……?」
「一緒には、行けない」
もう少しだけ、いつも僕の傍で支えてくれる人が泣かないように、僕はここにいようと思う。
そう告げると、奈保子は寂しそうな顔をしてから、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「奈保子、こんな兄さんを迎えに来てくれて、ありがとう。きっとそう遠くない未来で、もしも君がもう一度一緒に行こうと誘ってくれたなら、その時はきっと手を取るから」
奈保子の顔をした天使はもう一度ぱっと笑顔を輝かせて、溶けるように姿を消した。
世界が消えてゆく。すうっと眠りに引き込まれるように意識が遠のいて、愁也はベッドに倒れこんだ。
再び目が覚めた部屋は明るかった。鳥の囀りが微かに耳に届く。
夢で目覚めた時のような身体の軽さはなかった。胸は違和感を残して重苦しく、まだ熱があるせいで全身が怠い。ふと見遣った机の時計は朝五時半を指していた。
喉の渇きを覚えてベッドから身を起こし、ふらつく足取りで部屋を出る。まだ女中も起きていない、冷たい静かな朝の気配に満ちた屋敷の廊下を時折壁に手をつきながら歩いてゆく。
台所まで来たところでカタン、と裏の勝手口の戸が開く音を聞いた。こんな時間に誰だろうと深く考えずそちらに向かう。
そこには千田がいた。半ば開いたままの戸の前で、こちらに背を向けたままぼうっと立っていた。
千田、そう声をかける前にぱっと振り返ったその顔には涙が伝っていて、愁也ははっとした。
「愁也様……私、止められなくて」
その手には手紙が握られていた。
兄さんへ。表にそれだけ書かれているのを見た瞬間、愁也は躓くように勝手口に駆け寄り外へ出た。我に返った千田が愁也様、と叫びながら制止しようとするのも無視して駆け出し、息をきらして大通りに出る。
走ったせいで咳が出て、すぐに止まらなくなった。たまらず膝をついた地面には数日前に降った雪が緩くなって残っていて、着物を冷たく濡らしていった。
「愁也様っ」
追いついた千田が咳き込む背を擦る。酷く咳き込みながら、愁也は嗚咽していた。
「ぜほ、ごほっ……ッセヒューー、キヒューーーーーーッ…っうぅ、うっ……ッぜふっ、ごほ、ごほっ……っう……」
さようなら、奈保子。君がいるから、どこかで元気にやっているから、僕はまだ生きてゆける。
僕の、たったひとりの妹。どうか、幸せに生きて欲しい。
大通りの向こう、朝靄の中緩やかな坂を下ってゆく女性の影。ふと何かが聞こえたような気がしたのか、彼女は一瞬立ち止まり振り向く素振りを見せた。
朝靄に包まれた町は静寂に満ちている。坂を下りきったところから彼女を呼ぶ声が聞こえる。彼女は心を決めたように歩き出し、それきり立ち止まることはなかった。
彼女の長い髪には、縮緬でできた小さな赤い髪留めが光っていた。
