どれくらいベッドの上で俯いたきりだっただろうか。軋むような身体のこわばりに、愁也の意識はゆるやかに現実へと戻ってきた。
手紙の返事を書こう。ぼんやりした頭でそう思い立ち、机の引き出しから便箋を探し出した。
千田が片付けてくれたおかげで幾分広くなった机に置かれたまっさらな紙を見ている間にも、様々な思いがふわふわと脳内に浮かんでは霞のように消え、現れては消えを繰り返していた。
奈保子の文章から伝わって来る新しい生活への不安と期待、自分達の秘密を打ち明けてしまった事、そしてその“御主人”への好意――
「すまない、奈保子」
奈保子たち親子が家を追い出されたのは奈保子が生まれて間もなくの事だったから、その時に奈保子に「捨てられた」感覚はなかっただろうと思う。奈保子達が家を出て行く晩、昏く荒んだ目をした母親の腕の中で、彼女は何も知らぬ温かな眠りについていた。
「僕が会いたいとさえ願わなければ、こんなにも苦しませることはなかったのに」
幼い頃はなぜ奈保子達が出ていかなければならなかったのか分からなかった。ただ漠然と、自分の身体が弱いことと父が自分を嫌っていること、奈保子達が出ていったことに何か繋がりがあるんだろうと感じていた。その理由を明確に知った頃には、腹違いの妹のことが、自分が家督を継げないがために生まれることになり結果捨てられた哀れな妹のことが気になって仕方がなくなっていた。
人目を忍んで何度か会いにいった。怖くて腹違いの兄だなんてことは言えなかったけれど、奈保子は僕のことを愁にいと呼んで慕ってくれるようになった。本当のお兄ちゃんだったらよかったのに、と奈保子が無邪気に言う度に刺さる奈保子の母の冷たい目が、どうしようもない罪悪感が胸を詰まらせた。
罪悪感に耐えかねて全てを話した時、奈保子は笑ってそんな気がしていたの、と言った。でもそれを誰かに話してしまったらもう二度と兄さんには会えなくなる、そんな気がして誰にも言えなかった、とも言った。
「僕のせい、なんだ」
本当は兄と呼ばれてはいけなかったのだ。僕の存在など知らず生きていけばよかったのだ。
僕が言わずとも、母親がいつの日か奈保子に全てを話しただろう。顔も知らない腹違いの兄を、奈保子はもしかしたら恨んだかもしれない。それでよかったのだ。奈保子のことを思うならそうするべきだったのだ。
それでも僕は――
「会いたいと、願って、しまったんだ」
知らずのうちに呼吸が浅くなっていた。息苦しさを覚えた時には遅かった。
いくら息を吸おうと肺はゼイ、ゼイと耳障りな音をたてて酸素を拒絶し、苦しさに胸を強く押さえつけると常の倍以上に早い心拍が掌に伝わってくる。
「っあ、う……っは、ぜヒィィーーーッーーーーー、ッは、キヒューーーッ、カは、ハ、く、ゥ」
突然の酸欠に、愁也は崩れ落ちるように机に突っ伏した。バクバクと飛び出しそうな拍動が時折嫌な痛みを訴え始めている。
「っハ、ぐヴ、あ、ああ、ま、た………せヒューーーーーー嫌だ、な、ケホッ、い……つも、こう、だ……っう、ア」
こんな、こんな身体にさえ生まれなければ、不幸の連鎖を生むことはなかったのに。
「嫌、だ……嫌だ、も…っげほごほごほごッほ、こ、んなの、セヒーーッ、は……っ」
息が出来ない、苦しい、苦しい――そこに拍車をかけるように胸に何か熱いものがこみあげてきて、愁也は恐怖に目を見開いた。息を吐くことも吸うことも出来ない、咳さえ出せなくなった口から唾液とともにぼたぼたと真っ赤な血液が喀き出されて、まだ何も書いていない便箋に次々と染みを作った。
「愁也様、愁也様っ! しっかりしてください!」
酷い咳音と呻きは廊下まで聞こえていたのか、ノックもなしに千田が部屋に飛び込んでくる。夜半の突然の騒ぎを聞きつけて集まった他数名の若い女中達がこわごわと扉越しに部屋を覗き込んで、その惨状に小さく悲鳴を上げる。千田は立ち尽くす彼女達に急ぎ医者を呼ぶよう指示を飛ばすと、机に倒れ伏したままがくがくと震え喀血する愁也の背を強く擦った。
「かハ、ケふっ………… ア、ぅグ、えほッ……く、ぜエほ、ぜほ、っ………っ、ごめ、なさ………ッけほェほッ、ぅぐぅッカはッ………」
「愁也様、大丈夫です、今医者を呼びましたから、」
「せん、だ……ッ、も、い………いい、か……ッふ、ひっ、ヒ、ヒぁ、セヒューーーッ、セヒィィーーーーーーー……」
「大丈夫ですから、落ち着いて、息を吸いすぎです、ほら、まず吐いて……そう、ゆっくり吸って……吐いて……」
千田は愁也の呼吸を落ち着かせようと背を強めに擦りつつ声をかけるが、愁也には碌に届いてはいなかった。
「は、ハ………っくふ、うっ、………ごめ、ごめ、ん、許…し、て、っは、ハ、ハ、ハヒュ、キヒューーーーッ」
「大丈夫です……私はここに、ちゃんといますから……愁也様、私と呼吸を合わせてください。ゆっくり、少しづつ」
大丈夫、ここにいます。繰り返す言葉はまるで千田自身にも言い聞かせているようだった。たしかに傍にいて支えていますと言い聞かせるようでもあった。
「キひューーー、っは、セヒュ……ッ、ッは、は………は……………ゆ、る」
「愁也様……?」
「許し………奈保、……」
呼吸が落ち着いてくるとともに愁也の身体から力が抜ける。そのままずるりと千田に凭れかかるように気を失った。
いつの間にやらまた高熱が出ていた。口元の血は色を失った肌に赤々しく痕を残し、痩せた胸は儚く消えそうなふらつく呼吸の度に軋んだ音をたてている。
何やら勝手口の方が騒がしいのを千田はどこか遠くの事のように感じていた。ぐったりと身を預ける愁也の存在だけをありありと感じながら、女中達が医者を連れて部屋に駆け込んでくるまで、そのままぼんやりとした世界を揺蕩っていた。
