いつの日にか憧憬に眠る - 1/3

けほ、けほっこほこほ………こほ……ッコほ……

 扉の向こうから聞こえてくる力ない咳に、千田はそっとため息をついた。
 年が明けてしばらく経つこの頃、寒さはいよいよ本番とばかりに勢いを増し、日の当らぬ路地裏や道の端には先週末に降った雪が未だ溶けずに残っている。記録的な寒さは屋敷にもひたひたと着実に入り込み、普段は滅多に体調を崩すことのない女中頭が先日ついに風邪をひいて寝込んでしまった。
 健常者でさえ体調を崩す有様の中で、生来虚弱な者が平気でいられるわけがない。朝方の気温が氷点下になる日が増えるにつれ愁也の発作の回数も増え、実は移り病なのではなどと女中達の間で密かに噂になりはじめる頃には、積極的に世話をしようとする者は千田以外にはいなくなってしまった。
「愁也様、失礼致します」
 ノックをすると、部屋の咳音がぴたりと止む。どうぞ、と入室を促す声は少し掠れていた。
「お加減はいかがでしょうか」
 ベッドにから重そうに上体を起こす気配を背に感じつつ、千田は部屋の隅の、今にも崩れそうなバランスで本が山と積まれている机の僅かな隙間に持ってきた盆を無理やり押し込み、それから本を整理しようとその山の一番上に手をかけた。
「あ、それはまだ……
 挟んだ栞を落とさないで、あ、そっちはうちの書斎のものじゃなく人に借りたものだから、とベッドから掠れた声であれこれ言う愁也に、千田はわざと大袈裟にため息をついた。
「またこんなに溜め込んで……必要なくなったものは言ってくださればその都度片付けますからと何度も申し上げたでしょう。埃も身体に毒なんですよ」
「後でまた必要になった時を思うとどうにも億劫で……いつもすみません」
「本一冊、書斎に取りに行くのさえお辛いのなら休んでいた方がよろしいのでは」
 申し訳なさそうに笑うその顔色を見るに今日もあまり具合は良くないようで、千田は思わずきつい口調で諫言した。
「大丈夫、最近は落ち着いているから」
「愁也様のその言葉に騙される女中はもう一人もおりませんよ」
 昨年末風邪をおして外出した挙句酷く喀血して倒れ、熱も下がらぬまま昏々と眠り続けた数日間、千田は心の底から恐怖していた。無理をしてまで出かけたのは腹違いの妹に会いにいくためだということを知っているのは千田ただひとりであり、誰にも見咎められず出かけられる手筈を整えたのも千田だ。まさか既にここまで自由のきかない身体になっていたとは思わず、彼の意思と、何より千田自身の彼等兄妹を哀れに思う気持ちから軽率な行動をとった事に後悔した。
 もしもこの事がきっかけで彼の望まぬ形で彼等の秘密が明るみに出てしまうようなことになったら、そして万一にも彼がこのまま亡くなるようなことになったら。しかし中途半端にとはいえ秘密を共有してしまった以上はやはり何もしないわけにはいかない、いや違う私は自分の意思で彼の力になりたいと願ったのだ――
 煤払いも終わって住み込みの女中達以外はそれぞれの家で年末を過ごすため帰省し、いつもより静けさの増した小晦日の夜、ようやく熱も下がり意識を取り戻した愁也が薄く目を開け儚い笑顔を向けた時、千田は涙が溢れて止まらなくなった。心配をかけて済まない、もう大丈夫だから、と途切れ途切れに言った彼の枕元で、女中という立場も忘れて子供のように泣きじゃくった。
 愁也はただ、千田が落ち着くまでずっと、震える頭を冷たい指先でそっと触れるように撫でていた。

 あの日、千田は決めたのだ。これから何があろうと、たとえ自分の心が引き裂かれるような痛みを受けるとしても、この人の傍にいようと。決して一人にはしまいと。

「愁也様、お手紙が届いておりましたよ」
 千田は夕刻に屋敷に届いた封筒を愁也に渡した。
「ああ、いつもありがとう」
 宛名は千田サチ様、となっているが、これは奈保子が愁也に宛てて書いた手紙なのだ。家の者に気付かれることなく手紙がやりとりできるように、千田の妹を装って屋敷に手紙を書くよう奈保子に提案をしたのは千田だった。
「最近よく届くけれど、名を借りている妹さんにはご迷惑をかけていませんか」
 千田自身も屋敷で居ずらい思いをしているんじゃないか、と心配して尋ねる愁也に、千田はとんでもないと答えた。
「手紙を最初に仕分けするのは女中の仕事ですから何も問題はありませんよ。仮に怪しまれたところで実の妹との口裏合わせなどいくらでも出来ますから心配いりません」
「僕のために色々とさせてしまって本当に……いつも感謝しているよ」
 ありがとう、と笑いかける愁也に千田は一瞬言葉を詰まらせる。愁也のどこか寂しげな、無理をしているような笑顔を見る度、胸の奥がちくりと痛むような気がするのだ。
 愁也は文面に目を落とす。読むのにすぐ隣でじろじろ見ていては邪魔だろうと千田は再び本の整頓にとりかかったが、こほ、けほ、と時折聞こえる弱い空咳からはなかなか意識を離せそうにはなかった。
 書斎に戻す本とそのまま部屋に置いておく本、大体仕分け終わったところで愁也も一通り手紙を読み終えたのか、かさりと便箋を畳む音が聞こえた。続いてふ、と小さなため息。
「奈保子がしばらく前から家事手伝いに伺っているお宅の御主人が翻訳の仕事をしている方らしくてね、お暇な時には英語を教えてもらっていたらしいんだ。奈保子は飲み込みが早かったそうで、その御主人に大層気に入られたらしくてね……家事ではなく仕事の手伝いをしないか、と誘われたらしいんだ」
「それは良いことですね……奈保子さんは才女なんですね」
 ああ、とても利発なんだよ――そう言いつつも愁也の瞳はどこか浮かない色を湛えていた。
「千田さんの妹さんはお元気にしていらっしゃいますか」
「? ええ、チエは元気ですよ……恐らくは。妹は遠方の小さな商家に嫁いでいましてね。余程忙しいのか日々が楽しいのかは分かりませんが、姉にどころが実家にすらもうここ数年は手紙を寄越さない有様でして」
「おや、それはご両親もさぞ心配なさっているのでは……千田さんは会えなくて寂しくはありませんか」
「そうですね……一体どうしているのやらと不安になることはありますけれど……あの子がしっかり者なのはよく知っていますから。手紙を寄越さないのも今の生活が充実しているからだ、と思っていますよ。
 それにね、私があの子のことをこうして時折思うように、あの子もたまには私を思い出して頑張っているかもしれないと思うだけで少し幸せになるのです。これは姉の勝手な思いなのかもしれませんけれど……
 千田の答えに、愁也は柔く微笑んだ。
「手紙にあった御主人はここから遥か遠い北国の生まれだそうで……もし仕事を手伝うのならば母も連れて北国に行くことになるのだと、そう書いてありました。御主人は奈保子達の境遇を全て知った上で、それでも一緒に行こうと言ってくれたそうです」
「それは……
「行って欲しい、そう思っています。父の呪縛から自由になるためにもそれがいい」
 愁也は彼自身に言い聞かせるようにゆっくりとそう言った。しかし落ち着いた言葉とは裏腹に固く握り締められた両手から千田は目を離せなかった。
「千田さんと妹さんのように、離れていてもきっと心は通じている、それを糧に生きていけるのなら……たとえ腹違いの妹であったとしても……そうですよね、千田さん……
 愁也のぎこちない笑みに、千田はただ同じような曖昧な笑いを返すことしか出来なかった。励ましの言葉も、強い肯定も出来なかった。
「ああ、すみません……こんなこと、訊かれたって困りますよね」
「いいえ、いいえ、そんな、こと……
「少し、一人にさせてくれますか……? どうしていいか、わからなくて」
 お部屋片付けて下さってありがとうございます、と愁也は消え入りそうな声で言った。
「あまり、無理はなさらないよう……何かあったらいつでもお呼びください。お茶は冷めてしまったのでお下げしますね。また、後程お持ちします」
 愁也は手紙をくしゃくしゃになるほど握り締めて俯いたきり、返事を返すことはなかった。
 扉を静かに閉めて数秒、向こうから聞こえた咳とも嗚咽ともつかない声に、千田はそっとその場を後にした。