吸入のおかげもありなんとか呼吸の制御を取り戻した青年は、ふらふらと立ち上がると主人に一礼し、部屋を後にした。何度か咳き入る音が廊下から聞こえていたが、やがてそれも遠くなっていった。
「っはは、まるで昔のお前を見るようだな」
銀灰色の瞳が愉しげに笑っている。親しい友人にしか見せないような和らいだ笑みだった。
「ええ、まるで昨日の事のように思い出されます」
五年前、私はこの屋敷に足を踏み入れた。主人の最初の“お気に入り”として来る日も来る日も教育を受け続けるうちにいつしか感情を忘れ、拷問のような仕打ちも身に余る寵愛にも心動かされることはなくなった。
しばらくは死んだように日々を過ごしていた。しかしある日、ふとした瞬間に主人の言葉にしない要求を理解できるようになった。主人の考えるや行動が読めるようになったおかげできつい仕打ちを受ける事は減ってゆき、私は再び周りの感情に目を向けられるようになった。
私はまず主人の心に目を向けてみた。主人の心にあったのは孤独だった。ただ幼子のように温もりを求めてやまない魂は、どうか私を必要だと言ってくれ、と必死に懇願しているようにも思えた。
「そういえば、今朝方舶来の煙管が届いてね……大層美しい品なのだが、知っての通り私は煙草は好かなくてな。丁度一緒に、薬効があるという草を取り寄せた。お前の為にだ……是非試してもらいたい。いいだろう?」
主人は楽しそうに笑う。
「どこぞの国の健康法に、悪い血を体外に出す事で健康になるというのがあると聞いた。どうだ、これで少しはお前の肺も健康になるだろう……?」
そんな事をして縛り付けておかなくとも私はここにいますと言ったところで、主人はそれを信じないだろう。あまりに深い孤独に沈んだ心はそんな言葉ひとつでは動かないのだ。主人が何をしようと何を言おうと出て行けと言いさえしても、いいえここにいます、貴方の傍に仕えとう御座いますと言わない限りは。ここにいるという確かな証明をしなければ。
だからいくら血を喀こうと命をさらに縮めようと、私はここにいると決めたのだ。私が消えればこの人は狂ってしまうだろうとわかってしまったから。この人の孤独を埋められるのは自分しかいないのだと、知ってしまったから。
「私の為に取り寄せて頂いたとは、恐悦至極に存じます」
存在も忘れられて朽ち果てる筈だった、生まれてこのかた他人に必要とされた事のなかった私を、たとえ人形にする為であっても必要としてくれたこの人の傍を離れるわけにはいかないのだ。
「いい子だ」
主人は目の奥を細めて笑った。主人のその表情が、私は一番好きだった。
