孤独共同体 - 2/3

 青年は縋るような目をこちらに向けてくる。私は軽く目を伏せ、助けを求めるような視線を黙殺した。
 主人もこちらを見遣り、ああ、と笑う。
「お前も早く彼のように一人前になりなさい。そうだな、三年もあれば責任ある仕事もこなせるようになる……彼も初めは碌に掃除ひとつ出来なかった。だろう?」
「ええ、初めは何一つ。御主人様のお陰で、こうして働けるようになりました」
 つまらん、という顔で主人は薄く笑った。他の使用人が見たら震え上がりそうな酷薄な笑みだったが、それが不快ではなく愉悦から生まれる表情だということを私は知っていた。本当に主人が不快を示す時は、瞳の温度がもっと下がるのだ。

「まずは、耐える事を学ばせなくてはな……息を吸いなさい」
 青年の胸元から手を離した主人は、一歩下がるとそう言った。
 青年は怯えた目をしながらも、主人の言う通りにこわごわと息を吸い込んだ。タイで絞められた呼吸は苦しげで、彼は僅かに肩を揺らして酸素を取り込もうとする。と、
……っ」
 主人は両手を青年の肩に押し付けた。右手に握られたままのステッキの、象牙造りの持ち手が鎖骨に食い込み、青年は痛みにぐっと眉根を寄せる。
「肩は動かしてはいけない……使用人たるもの、立ち姿は整然と微動だにしないものだ」
 緊張と押さえ付けられた呼吸苦から、青年ははく、と喘ぐように酸素を取り込もうとした。その唇を主人のすらりとした人差し指が押さえる。驚きに、青年の目が大きく見開かれた。
「慎みのない真似はするな。客人の前で私に恥をかかせたいのか?」
 彼は呼吸をすることも忘れてただその目を零れんばかりに開かせている。それを見て、主人は満足そうに笑った。
「やればできるじゃないか。もしかしたら、今までの誰より飲み込みが早いかもしれないな?」
 主人が横目で私を見遣る。微笑みで返すと、主人は愉しくて仕方がないと言わんばかりにクスリと笑った。
 まあいい、と主人は指を離す。青年は額に冷や汗を浮かべていた。
「さて、と。風邪を拗らせていないか確かめてやろう……なに簡単さ。少し聴診するくらいのものだと思えば良い」
「御主人様、あの、」
 青年が言い出しかけたその先を、主人は目線だけで封じた。恐らく青年はこの咳は喘息性のものであって風邪ではない、と言うつもりだったのだろう。主人はとうにそんな事は承知している。知っているからこそ、これからやろうとしている事の期待に目を輝かせているのだ。
 私は興味を失ったとばかりに、すいと目線を逸らした。こればかりは直接見たいものではない。自分もかつて通ってきた道である以上、その痛み苦しみがありありと想像できてしまうからだ。
 主人は持っていたステッキの持ち手を青年の右胸上方にぐ、と数センチ食い込むほどの力で押し付けた。
「っう……
「痛いか? もう少し我慢しろ」
 顔を顰め俯いた彼を労うように軽く声をかけると、今度はそれを左胸にぐ、と押し付けた。
……っぅ、っく、」
 心臓に影響を与えかねない部位は上手く避けているようだが、それでも瘦せた胸にしばらく消えない痣を生むだろう。青年はそれでも気丈に耐えていた。
「中々骨があるな。気に入ったぞ」
「は……っは、私には過ぎる、言葉です……
 ゆるりと微笑む主人に、青年は固いながらも笑みを見せた。真に主人が自分の為を想うがこその行為なのだと、信じて疑わない故に。これこそが愛なのだと妄信するが故に。
「お前にならもう少し高い要求もできそうだな」
 そう言うなり、主人は前触れもなくステッキの先端を青年の右肋骨の下に突き込んだ。
「ぐぅッげほっげほげほげほゲホっあア、げほ、う゛ぅ、ッああ゛……!」
 突然の事に成す術も無く、彼は身体をくの字に折り曲げると激しく咳き込んだ。
 彼は慢性的な喘息を患っていた。咳が長引くせいで肋骨に痛みもあったのだろう、押さえて苦しげに息をつく場面を見たのも一度や二度ではなかった。
 今の衝撃でヒビくらいは入ったかもしれない。それでも膝をつかなかったのを見るに、彼はやはり相当に気丈なのだろう。
「どうした、もとから怪我でもしていたのか? そこまで大げさに反応することでもあるまいに」
……っは、うぅ……くは、は、はぁ……ッぜほごほごほごほ、ぜヒ、っ、っひ、は、ぜキィ、っぅ、」
 酷く咳き込んだせいで発作を誘発していた。抑えようとはしているようだが、その胸からはひぃ、ひぃ、と異音が響き始めている。
「姿勢が悪いと、言っているだろう?」
 情け容赦もなく、主人は彼の肩を掴んで顔を上げさせた。恐怖の色を湛えた瞳が、主人の冷ややかな瞳と交差する。
「呼吸の仕方も教えてやらねばならぬらしいな」
 主人は掌でぐ、と彼の胸を押した。先ほど酷く突かれ、シャツの下で惨く変色しているだろうそこを狙って。
「っあ゛、やめ、っぜほぜほぜぉッッああ゛、ア、」
 青年はそのまま逃げるように後ずさった。青年の咳と喘ぎと、主人の無機質な靴音だけが部屋に響く。書斎のドア横に追いつめられた青年は、助けてくれと縋る目をしてこちらを見た。貴方も同じ苦しみがわかるでしょう、という救いを望む瞳。私は目を合わせもしなかった。
「聞き苦しいその音をなんとかしろ」
 傷つけられ発作に喘ぐ胸をこれでもかと圧迫され、壁際で逃げ場を失い、青年は喉から空気の漏れるような呼吸しか出来なくなっていた。
 かは、ふ、と彼が必死に酸素を取り込もうとする度、主人の掌の圧が上がる。
「皆これがお前の為だとわかっているから、私のすることに口を挟まぬのだよ。彼等のようにきちんとした立ち居振る舞いを身につけたければ、我慢を覚えることだ」
「は、い……御主じ、ゼ……っぜォォぜほ、さ、ま」
 先程まで締め付けられることでの苦痛の色が強かった呼吸が、明確に喘息発作に変わりつつある。ゼィゼィと肩で息をし、呼気に最早隠しきれない異音が混ざりはじめた青年の右手が、薬を探して反射的にズボンのポケットをまさぐっていた。
「薬など使うからいつまでも治らないと、そんな事も知らないのか」
 やっとのことで取り出した吸入器を持つ震える右手を、主人はステッキで強かに打った。取り落とした吸入器を、磨き上げた靴の爪先で非情に蹴り飛ばす。
「離して、下さっ……っぜほ、ぜほんぜほんぜぉんぜおぜほお゛ッッヒあ゛、う、うぅ……っキヒ、キヒィーーーーッ、ヒッ、ハヒュ、」
 堪らず、青年は主人の手をはね除けた。そのまま酸欠でずるずると座り込み、胸を庇うように丸くなりながらも尚酷くなる喘鳴を持て余し、時折咳き込み過ぎて嘔吐くように瘦せた背を震わせる。
「本当に、卑しい生まれの者というのはなっていないな」
 主人が冷たく言い放つ。部屋の空気を下げるような、零下の冷たさをはらんだ声だった。
 これ以上は危険だ、と頭のどこかで警鐘が鳴っている。青年の病状はまだ主人にも掴みきれていない。これ以上主人が昂れば、越えてはいけない一線を越えかねないと思った。止められるのは私しかいないと確信していた。
「御主人様、」
「そんなだから身売りなどさせられるのだ」
 私の制止を無視し、主人はなおも零下の言葉を吐く。
 主人の一言にびく、と青年は身を震わせた。身売り、という言葉に怯えている。
「あそこに、戻るのは嫌っぜおんぜおんぜオ、ゆるし、て、下さ……っヒィげほげほげほぜおんぜほぜほっぜひいいぃぃ……っヒ……キヒ……
 激しく呼吸を乱しつつも必死に謝る青年の傍らに、主人は膝をついた。
「いいか、全て私の言う通りにすれば大丈夫だ。お前のような身分の生まれでも、ここでなら真っ当に生きていける。捨てられる恐怖に苛まれることなく……そのための少しの我慢だ。それくらい、出来るだろう?」
 つ、と主人が私に目で合図をする。さっき蹴飛ばした吸入器を拾ってこい、と言っているのだ。私は一礼してその通りにした。
 主人は私の差し出した吸入器を青年の咳き入る口に恭しくあてがい、ぜいぜいと波打つ背を擦った。
「愛しているから、必要としているからこうするのだ……色事以外では籠の鳥として腫れ物のように扱われてきたお前には、まだわからないかも知れないが、ね……
 いまだ呼吸を乱しつつも主人を見遣った青年の目には恐怖もあったが、微かに感謝のようなものも見て取れた。
 心から愛されるということを知らない弱く儚い美しい青年を、主人はこうして好みの人形に仕立ててゆくのだ。いつしか人形にされていると気づいても、孤独な主人の傍にいてやりたい、尽くしたいと思うようになるまで。その歪んだ愛の形さえ愛おしく思えるようになるまで。