気が気じゃない

 先程から何度か目にしているその仕草が、気になって仕方がない。
 拳を口元にあて喉の奥で押し殺したようなくぐもった咳をした後に、襟元を緩めようと胸元に下った手が一瞬の迷いとともに止まり、やがてキーボードへと戻ってゆく。デスクに所狭しと置かれた書類の向こうに見える顔は、普段より少しばかり血の気を失っているようにも見えた。
「ネクタイ、外した方がいいんじゃないのか」
 またしても咳を押し殺しているのを見て思わず声を掛けると、眼鏡越しの視線と目が合った。
「職場で服装を崩すのはどうにも落ち着かなくて……っ、けほけほっ」
 言葉はそのまま咳へと変わり、彼は慌ててハンカチで口元を押さえた。
 肺の奥から飛び出そうとする重い咳の衝動を無理矢理に押さえつけるように空咳ばかりを繰り返す。そのうちに呼吸に微かな異音が混ざり始めて、彼はそれを聞かれまいとするかのように背中を丸めデスクに突っ伏した。
「っおい、大丈夫か」
「別に、大丈夫……いいから」
 背を擦ろうと席を回り込み手を伸ばすと彼は突っ伏したまま呻くようにそう言った。こんな状況であっても頑に人を頼ろうとしない様子に、俺は少しの苛立ちを覚えた。
「どうみても大丈夫じゃないだろ。薬とか持っていないのか」
 拒絶を無視して背中に手を置く。
(……こいつ、熱もあるんじゃないのか)
 スーツの上からでも違和感を覚える程だ、平熱であるわけがない。
「風邪をおして無理するくらいなら、長引かせる前にさっさと休め」
「風邪の度に、っけほ、休んだりなんてしたら、仕事にならない……ぜほッ、ぜ……はぁ」
 彼は眼鏡を外すと、それをそのまま億劫そうにデスクの隅に置いた。普段ならそんな扱いはしないというのに、余程身体が辛いのだろう。
「少し、休む……」
「馬鹿、そのまま寝るな。せめて休憩室のソファにでも移動しろ」
「無理、多分、立ち眩み起こすと思う……」
「そういう時くらい素直に人を頼れって!」
 彼は他人よりも体力的に劣っていることをきちんと計算にいれた上で行動できる人だ。それでも時折舞い込むトラブルに、彼は文字通り自分の身を削って対応してしまうのだ。そしてその度に体調を崩すのを誰にも見られまいとしている。
「ほら、肩貸してやるから立てって」
 彼が人気のない非常階段で咳き込んでいるのを見かけたのは、全くの偶然だった。それでもそれ以来、半ば諦めからかもしれないが俺にだけは体調が悪い事をそれほど隠さなくなった。
 熱を帯びた身体を担ぎ上げるようにして立たせると一瞬足下をふらつかせたが、目眩に襲われることはなかったらしい。
「……ありがとう」

 隣で小さく呟かれたその言葉に、何故だかふっと笑みが零れた。