在りし日へ

 また後で、と言った時、その姿を見るのは、声を聞くのは最後になるかもしれないとどこかで考えていた。
 京楽は一度だけ振り返った。風にそよぐ月白の髪の合間から微かに覗く翠の残光を確かに見た、そんな気がした。
「壊れたらまた直せばいい」浮竹の言葉が思い出される。二度とは元には戻らないものが存在することを知っていながらも、浮竹はそういう物言いをするのだ。壊れたらそのまま砕け散って消えてしまいそうな君がよく言う、と京楽は思った。
 浮竹は振り返らなかった。そのすらりと伸びた背は、京楽に覚悟を問うているかのようだった

 お前の誇りはなんだ。今その目を、力を向けるべきはどこだ。


 最初は自分の身ひとつが精一杯だった。統学院で一生の友を得て、背中を護りあって戦うようになった。やがてそれぞれが護るべき部下を、世界を持つようになって、互いを信頼し合うからこそ護りあうことは減っていった。
 千年の間に護るべきものはどんどん増えていった。そしてそれらにはそれぞれ優先すべき順序があることを知っていった。
 どんなに力がある者にだって、世界というものが漠然とした掴みどころのない巨大な存在であるうちはそれを守ることなど出来やしない。大切な何かを世界を構成するピースのひとつにすることで、世界を護るべきものへと変えてゆくのだ。倫理観、プライド、結果、誇り……何を基準にピースを選び取るのかが違うだけで、それぞれの見る世界の形は変わってゆく。
 京楽の世界の礎石となったのが浮竹だった。薄っぺらいくだらないもので身辺を飾り立てていると自覚しても尚そのようにしかあれないことに半ば絶望を覚えていた自分のことを浮竹は好きだ、と言った。そんな風に苦悩するお前が好きだ、とも言った。
 いまだに京楽にはなぜ浮竹のような真っすぐな男が自分のような軽薄者に近づいてきたのかよくわかっていない。そんなことをぎこちなく問うような時期をなんとなくやり過ごしてしまったような、言わずともなんとなく分かり合ってきたような千年間だった。
――そんな千年も、もうすぐ終わりが来る。

「浮竹、君は僕を心中相手に選んだんだよね」
 浮竹が自身に宿る神の話を初めて打ち明けた時、京楽は自分がどうして彼に選ばれたのかを悟った。
 浮竹は本当は誰にも話すつもりはなかったのだ、と言った。最後の瞬間までこの覚悟は自分だけのものであると、決して人に背負わせるべきものではないのだとも言った。
 ひとつわかったのは、全てを受け入れまた全てを受け入れて欲しいと浮竹が身を投げ出してきた時点で、浮竹を失うことはすなわち自分自身の死でもあるのだ、ということだった。ひどいとは思わなかった。自己嫌悪で死ぬくらいなら、浮竹の残した心の重さに耐えかねて死ぬ方が余程良いと思った。
 浮竹はきっと僕の中に心を置いてゆくだろう。
 その重さに耐えてどこまでゆけるだろう。少なくとも、浮竹が護ろうとしている世界の行き着く先を見届けるまでは大丈夫だと思えた。
「ねえ、浮竹。全てが終わったら、二人であの頃に戻ろうか」

 まだ覚悟も何も知らないまま、未来に剣を掲げたあの頃へ。ただ互いの背中を護り合うだけで幸せだった幼き時代へ。
 世界ができる前の、在りし日へ。