垂り雪 - 2/2


 この審神者はつい半月ほど前に配属の命を受けたばかりの新参者だ。歴史修正主義者との戦いは益々苛烈を極め、昨今戦力拡充の一環として新たに興された本丸には即戦力となれるように三日月宗近、小狐丸という強力な太刀が初期から与えられている。
 まだ未熟な腕ゆえ、これまで己の力で顕現させたのは短刀や打刀ばかり。そんな審神者が何の因果か数珠丸恒次の顕現にあっさりと成功してしまったのだ。方々から賞賛されて審神者は舞い上がった。己の中にはすごい力が眠っているのではないかと密かに妄想を膨らませさえした。自らの才を見極める基準さえ持たぬ程経験の足りない審神者には仕方のないことだった。
 他本丸の今後の参考にするため、審神者はこの新たな刀の特性を見極める任を受けた。審神者は早速数珠丸恒次を一軍に据え、また暇さえあれば近侍として傍においた。データを取るため畑仕事や馬当番なども一度は命じたが、長い髪を持て余しつつ与えられた仕事に邁進する繊細で優美な後ろ姿になんとなく居た堪れなさを感じてやめた。
 数珠丸恒次は初期の太刀二振りに全く引けを取らない非常に優秀な刀だった。個人の戦績もさることながら、隊を率いらせても抜け目がない。高い能力に自惚れた言動などもなく、その所作はまさに天下五剣の名に相応しい。出来すぎていて他の者を一切近寄らせない冷たい孤高の存在かと思えばそうでもなく、昼下がりに外で遊ぶ短刀達を見て柔らかに微笑んでいたりする。知れば知るほど審神者はますますこの美しい刀を気に入っていった。

 ひととおりデータを取り終えた頃に審神者は気がついた。自分はどうやら数珠丸恒次に避けられているらしい。
 下級の神格とされる付喪神も一端の神である。人の手によって顕現させられた以上表向きは人間に従っていても、そう簡単に心までは許してくれないだろう。数珠丸恒次が審神者を避けているのもそのような理由からだろうと初めは思っていた。しかし日増しに違和感が募る。数珠丸恒次のそれは言うなれば、何か後ろめたいことを隠している時の歪な余所余所しさに似ていた。
 刀剣男士達は近侍として審神者の部屋に侍る時と何か任務に就いている時、出陣時以外は各々自由に過ごしている。長く人間に扱われてきた故それぞれの持ち主に似たのか彼等は個性豊かで、料理の得意な者、酒が好きな者など様々だった。しかし数珠丸恒次はというとこれがよく分からず、非番の日はいつも自室に篭りきりのようなのだ。同じ天下五剣の三日月宗近なら何か知っているかと思って尋ねてみるも曖昧な返事を返され、刀派を同じくするにっかり青江は未だこの本丸には顕現していないため訊くことができない。流石に個々に与えられた自由時間まで詮索するのはいかがなものかと思ってこれまで自室をこっそり覗くような真似はしないでいたが、そろそろ好奇心が罪悪感を上回りはじめていた。

 散々悩んだ末、ある日の草木も眠る丑三つ時に審神者はそっと行動を開始した。
 月光に濡れる縁側を摺り足で歩く。微かな草木のさざめきだけが聞こえる夜の本丸は昼よりも神秘的な力に満ちているようで自然と感覚が鋭くなってゆく。僅かな物音にも一々反応して足を止めつつびくびくしつつ極力静かに各男士達に割り当てた部屋の前を通り過ぎ、目指すは廊下の一番奥にある数珠丸恒次の部屋だ。
 審神者は刀剣男士が眠るのかどうかを知らなかった。夜は短刀達も静かになるので眠るのだろうと勝手に想像していたが、果たして刀剣の付喪神は人間と同じように眠るのか。ふとそんなことを考えてしまうと己の行動も実はとっくに感づかれているのではあるまいかと不安になった。いや、真意を読まれているくらいならまだいいほうだ。下手な摺り足を夜討ちと間違われ一刀の下に斬って捨てられるやもしれない。あるいは、神隠しに遭うか。
 廊下の一等奥の部屋からは微かな灯りが漏れていた。暗闇の部屋をそっと覗き見る恐怖よりかは幾分ましだが、何をしているのだと見咎められるのも怖い。やはりやめておこうか、いやここまできたのだから――迷う審神者の耳に、ふとなにかが擦れるような音が聞こえた。

――ッ、っくふ………っ、 ッ…!……っは、ハーーーーッ、ハーーッ……

 それは咳のようであった。外に聞こえぬよう無理矢理に押し殺したような、人目を避けてすすり泣いているような声とも呻きともつかない音が夜中のしんと張り詰めた空気にわずか溶けこんでいる。いつまでも止みそうにないそれは審神者が足を止めている間にも段々と濁りを含んだ危うげなものに変化しつつあった。
 目指す部屋の前にやっとのことで辿り着く。間違いなく咳はこの部屋の中から聞こえてきていた。最早好奇心を抑えることなど出来ず、腰を落とし障子の端ににじり寄っていって、僅か指一本分ほどするりと開けた。
 行灯のゆらりと照らす和室はがらんとしていて、私物の類は見受けられない。最奥に白い刀の置かれた刀掛台がある他は殺風景すぎるほどに物がない。そんな部屋の中ほどに、背を向けた華奢な影が頼りなげに正座しているのが見えた。

けほ、けほッーーーーーーーっく、う、くふッ………

 う、う、と苦しげに呻く度細い背中が揺れて、畳に広がる長い髪がさりさりと衣擦れのような音をたてる。いくつか連続して咳き込んだ後ぜろぜろと胸に絡むような呼吸をする。ながく胸を病んだ人のような、胸から空気が漏れ出しているような喘鳴を必死に聞かれまいとするように、彼は口元に手巾をあてて咳いているようだった。
 予想外の光景に審神者は狼狽えた。どう見たって苦しんでいるのだから助けるべきだとは思うのだが、果たして付喪神に体調不良なぞ存在するのか、助けるとしても人に対するのと同じ処置でいいのか。そもそもこんな風に忍んできてしまった以上おいそれと声もかけられない。
 迷う審神者が見ている先で、ふいに儚く咳き込む背がぐっと強張った。押さえていた手巾が畳に落ち、細い指先が直接口元を覆う。

う、ぐ……ッ?! ーーッあ゛、かはッーーー

 ぱた、ぱたた、と畳に雫を落とす音がやけに大きく聞こえた気がした。
 手指の隙間から零れ落ちたのは、薄明かりの下でも冴え冴えとした赤だった。痙攣するように背を震わせる度手を濡らす赤は増え、やがて手首のほうまで滑り落ちて袖口を汚し、雪のような髪にも絡みつく。
 審神者は最早一歩たりとも動けなかった。見てはいけないものを目にしてしまったのだと気がついた時にはもう遅い。ただただ目の前の凄絶な光景に魂を奪われ、息をするのも忘れていた。
 折れそうに細い身体がぐらりとよろめき、風に吹かれたかのように前のめりに畳に倒れこむ。ばさ、と軽い音を立てて広がった髪に散った赤がじわりと染み込んでゆく。ひゅうひゅうと木枯らしじみた呼吸音に重い喘鳴が混じり、血に濡れた手は胸元に爪を立てたままだ。ふいに開いた左手が虚空に伸ばされる。何かを求めるように開かれた手は畳を引っ掻きながら倒れた身体を這うように進めようとしている――己の本体を求めているのだ、と審神者ははたと気がついた。
 ようやく異常な光景に思考が追いついた。どうにかしなければ、と立ち上がりかけた動きはしかし何者かによって押し止められる。
 振り向いた先にいたのは三日月宗近だった。繊月を背にして立つ三日月は無言のまま、審神者に退けと目で言った。反射的に一歩退いた審神者の横を通り抜けて、三日月はあっさりと数珠丸の部屋に入る。
 自身の服が汚れるのも構わず三日月は咳に溺れる痩身を助け起こすと、部屋の奥に鎮座する月白の刀を掴み滑らかに鯉口を切った。ほとんど意識を失っているかに見える数珠丸恒次に何事か話しかけ、やがてひとつ頷くと顕になったぎらりと光を反射する刃で己の指先を浅く傷つける。三日月の血は刃を僅か濡らし、やがて吸い込まれるように消えた。するとまじないのごとく数珠丸恒次の呼吸が安定し始める。やがて数珠丸は三日月の腕の中にぐたりと身を預けて瞳を閉じた。
 三日月は部屋の入り口で動けなくなっている審神者に視線を向けた。行灯に照らされた瞳が怪しい光を投げかける。
「他言無用の意味なぞ、言わずともわかるな……?」
 その一睨みだけで審神者は動けなくなった。無様に口を開けたまま固まる審神者に、三日月は緩く笑んでみせた。


 この本丸に顕現した数珠丸恒次は他の本丸のものとは違うと審神者は後々知ることになる。太刀を、それも天下五剣の一振りを降ろすにはこの審神者の腕は未熟すぎたのだ。

 何の因果かあちこちに欠陥を抱えたまま顕現させられた数珠丸恒次は、今日も一人自室で怪しげな咳を零している。