コンコン、と控えめにドアをノックする。普段ならば返事もそこそこに開けてしまうのだが、今日はすこしばかり慎重になっていた。
何度かノックをしても応えのないドアの前で、太宰はぶるりと身を震わせる——なんだ、俺は今怖いと思っているのか。
そっとドアを開けた先には、自分の部屋とよく似た殺風景な空間が広がっている。簡素な机と寝台、シンプルなデザインの電燈と小さな収納。窓の配置まで自室と同じだが、部屋全体に漂う珈琲の香りが、書き溜めすぎて危うく崩れかけている机の上の原稿用紙の山が、寝台にぞんざいに投げられた彼愛用のジャンパーが、ここがたしかに織田の部屋だと示している。
部屋の主は机に突っ伏して眠っていた。原稿用紙の上に力なく伸びる右手の側には万年筆が転げていて、即席のインク壺と化した薄皿の端は黒く乾き始めていた。
「オダサク?」
太宰が静かに、彼の普段の様子からは考えつかないほど小さな声でそっと呼びかけると、織田は途端にがばりと身を起こした。勢いよく頭を上げたせいか寸の間ふらりと身を前に傾がせ、ばたんと音をたてて手をついた拍子に派手に筆立をひっくり返す。
「ああ……太宰クンか」
散らばった筆記具をまとめる手つきがふらふらと危なっかしく、見かねて太宰は思わず手を出した。おおきに、と呟く織田の声には生気がなかった。
「あ……オダサク、これ、」
筆立の後ろに何か転がっている。拾い上げてみるとそれは懐かしい小さな注射器だった。
「ああ……ちょいとな、誰もいてへん間に拝借したんや。森先生には内緒やで」
すまんなあ、少し書き留めるだけのつもりが思ったより筆が乗ってしもうて。犀星先生に心配かけてまうわ——血の気の引いた白い顔でへらへらと織田は笑う。はよ行かんと折角のパーティーのご馳走がなくなってまう、と緩慢に立ち上がりドアの方へ歩を進めて——突如ぐらりと膝から崩れ落ちた。
「オダサク!」
崩れ落ちた織田はそのまま胸を抱え込むように背を丸め、立て続けにげほごほと重い咳をした。咳の衝動にびくびくと跳ねる薄いシャツ一枚の背中に手を伸ばして初めて、太宰はそこに宿る常とは違う熱に気がついた。背骨が辿れそうなほどに痩せた背を擦りながら、こんなに危うい身体をあの高笑いに隠していたのかと愕然とする。
「すまん、なぁ、吃驚、させたやろ……すぐ、ッげほ、ゼホッゼホゼホゼホ、よくなる……ッゔ、う……から……」
言葉とは裏腹にいよいよもって咳は激しくなり、織田は低い呻きを漏らすと薄い胸にがりがりと爪をたてた。
「オダサク! しっかり、聞こえてる? ゆっくり息吸って、吸ったら吐いて、」
革手袋を外した手はナイフを持つ人間の手とはとても思えない細さだったが、こめられた力は強かった。太宰の声を聞く余裕すらなく、織田は胸元をきつく押さえたままがくがくと咳の衝動に身を弄ばれている。
「太……クン、さわいだら、あか、ん……ッぐ、げほ……」
いつかの記憶が蘇る。浴びるほど酒を飲み、二軒三軒と飲み屋をハシゴしては尽きぬ侃侃諤諤の議論を交わし、夜道に調子外れの歌を響かせたあの頃を——口角泡を飛ばして持論を語ったかと思いきやふいに背を向けてごほごほと咳き込み、大したことじゃない気にするなといった風でニッと笑った背の高い彼の面影を。
ごぼ、カはッ——嫌な音の咳に意識が現実に引き戻された。口元にあてがわれた白く細い手指の合間から、鮮やかな赤が零れるのを太宰は見た。彼の瞳の色に似た、けれどもっと残酷で胸に刺さる赤だ——ごぼ、ごぼりと止まらないそれは織田の手を、口元をシャツを濡らして、冷たい木の床にぼたぼたと落ちた。
「げほ、げほっ……、っふ、はは……」
零れた赤を目にした織田は驚くでも取り乱すでもなく、ただぜほげほと乱暴に口内に残った残滓を喀き出すと低く笑った。
「笑うな! こんな時にまで笑うなよ!」
太宰は堪らず叫ぶ。「なあ、もうやめよう、やめるんだよ、何度生き直してもいつまでも前と同じことを繰り返すのは!」
自分の死んだ日のことはよく思い出せない。だが身近な人間を失った日のことは、転生した今でもやけに鮮明に記憶していた。織田作之助の死もそのひとつだった。あの日、何もかもを投げ捨てて走った冬の日の、身を切り裂くような冷たさ。ようやく辿り着いた病院で、もう二度と目覚めない彼を前にした時の虚無感。ついぞ届かなかった、何もできなかった手を虚しく彷徨わせ立ちつくした、薬品臭い病院の廊下。
「眠るのが、こわいんよ」
ぜいぜいと胸を喘がせ、苦しい息の下、ぽつりと織田は言う。
「生身の人間やった頃と違うのは、わかっとる。この肉体は病で死ぬことはないて、お司書はんも言っとったしな……でもな、どないもできひんのや。胸が痛む度、咳と熱に苦しめられる度にああ書かねば、一文でも一文字でも、誰が読んでも読まへんでも、ワシの中から溢れ出すもんを今この瞬間に書き留めておかねばと思ってしまうんよ」
わかるやろ、太宰クンなら。口元に伝う血を震える指で拭って、織田は諦めたように力なく目尻を下げた。
「なあ、オダサク。……きっと、きっとさ、何とかなるよ」
無様なまでに震えた自分の声に、太宰は泣きたくなった。「きっと何とかなる」なんて、天才小説家が書くには拙すぎて笑いたくなる台詞だ。
「オダサクは相変わらず徹夜で無理はするし薬は打つし、俺は相変わらずすぐ自殺したくなるけど、でもかつての俺たちとはたしかに違う人生を今生きてるんだよ。俺たちがかつて命を削って、自分の子供みたいに大事に大事にあっためて守って、そうしてやっと生まれた作品に込めた世界が、愛した人の面影が、かすかな希望や望んだ自分の姿だって今のこの身体にはきっと入ってる。だからさ、あの時と全く同じになんてきっと、いや絶対にならない」
だからさ、大丈夫なんだよ。無理矢理な言葉に織田も小さく笑った。
「そやね。太宰クン、たまにはええ事言うやんけ。……ええ事ついでに悪いんやけど、肩貸してくれへん? 太宰クンのそない必死な顔見てたらなんや、力抜けてしもたわ……」
「はいはい、お安い御用ですよ……って、オダサク軽っ! 軽すぎだろちゃんと食ってんのか?!」
「ちゃんと食べてますよう。美男子はこれくらいでええの」
肩を貸して寝台に横たわらせると、織田はようやく落ち着いてきた息を深く吐いて、ああ、煙草欲しいなァ、と呟いた。
「煙草は今日は駄目! 代わりに食堂から何か食べ物貰ってくるよ、何がいい? ケーキ?」
「今ケーキは少し、重たいなあ……それに今日の主役の紅葉先生から甘味を奪うなんて、そないな怖いことしとないしな。折角のハレの日や、ワシのことはええから、もう少し遊んどいで」
「俺はオダサクと一緒に楽しみたいの!……わかった、何かさっぱりできるもの見繕ってくるから、その間おとなしく寝ててよ。無理は駄目! 絶対!」
太宰の剣幕にわかったわかった、と織田は気怠げに手をヒラヒラさせて応える。とうとう気力を使い果たしたのか、部屋を出る太宰が振り返った時にはその手もぱたりと胸の上に落ちて、すうすうと寝息をたてていた。
きっと、何とかなる。もう一度声に出してそっと言ってみる。かつての自分ならそんな曖昧な希望なぞ何の役に立つかと一笑に付したかもしれないが、今の太宰には小さくも美しい希望に思えてならなかった。
明日になれば織田はまたいつものように自身の不調を高笑いで誤魔化し、太宰もまた俺は人間失格だと嘆いて己の終わりを夢想するだろう。それでも二度目の生を受けた自分達は、これまでとはきっと何かが違う。良くも悪くも変わっていく。
「おやすみ、オダサク。いい夢を」
食堂に戻ったら真っ先に彼の分のケーキを確保しよう。誰にもわかるようにでっかく名前を書いた紙を貼ってとっておこう。そうだ、大きな苺の乗ったやつがいい……彼の瞳と同じ、きらきらした宝石のような赤色をしたやつだ。そうして明日の朝になったなら、寝ぼけ眼の彼が濃い珈琲を淹れるよりも先にじゃじゃーんと大仰に見せてやるのだ。
一月十一日の朝を迎えた彼に誰よりも大きな声でおはようを言えたなら、きっと彼の誤魔化しでない笑顔を見られる。確信に近い思いと、これから成す素敵な悪戯の可笑しさに、太宰はひとりくすくすと笑い声をあげた。
