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 やがてバスは静かに終着駅に止まった。降りようと切符を見せるも運転手は首を横に振る。どうやら乗り越し料金が必要らしかった。
「果てまで行ける切符だと思ったのに!」
「間違えとったもんはしゃあないやろ。きちんとお金払わんと」
 憤慨する太宰を横目に、作之助はちらりと手持ちを確認した。自分の分だけならかろうじて持ち合わせているが、二人分には少し足りなかった。
「おっちゃん、ツケにできない?」
「太宰クン、あかん」
 結局太宰の持ち合わせと足してなんとか払いきることができた。しかしこれでいよいよ財布はすっからかん、帰りの分はなくなった。
「バス代を借りているのは仮の太宰。本当の太宰は……」
「それ、返す気ないて言っとるやん!」
 これから死ぬというのに帰りの分まで考えていたのはおかしな話だが、それも今や過去のことだ。バスは元来た道を走り去り、やっとここからが本当の死出の旅の始まりだと、二人は人気のない国道沿いをからからと能天気な笑い声を響かせながら歩いていった。
 調子外れの口笛吹きながら、太宰は白線の上を綱渡りのように歩いていた。バランスをとる度ふらふらと揺れる背を作之助は少し後ろから黙って追いかけた。やがて国道から逸れて、砂利の細道を並んで歩いた。潮の匂いがいっそう近くなる頃には、太宰の口笛も自然と静かになっていった。 

「これは、絶景やな」
 砂利道を抜けた先には海と空ばかりが広がっていた。立ち尽くす足の遥か下では白波が揺れている。
 太宰は恐る恐るといった風で断崖ににじり寄り、そっとその下に目をやった。夕日をいっぱいに受けた波がざんざんと打ち付けては砕け、夕日の色に染まったかと思えば崩れて深い青に戻っていった。
「ふたりでこれ全部飲んで、ふらっと足を踏み外してそれで終わり。簡単やね」
 いつの間にやら作之助の手には錠剤入りの小瓶が握られていた。瓶の中で白い粒がさらさらと転がる音が、波が砕ける間にもやけにはっきりと聞こえていた。
「太宰クン、怖いんか」
 言われて初めて、太宰は自分の頬を伝う涙に気がついた。
「わからない……俺、こんな景色を前にも知ってる気がする」
 太宰が自殺という手段で人生に幕を閉じたことを、作之助は転生して初めて知ることとなった。自殺の事実に驚きは感じなかった。仮に自分が先に死ななかったとしても、彼はいつかはそうしただろうなと思った。
「前も、怖かった?」
「覚えてない……けど、寂しかったんだと、思う」
「さよか。今度は寂しくないで……ワシが一緒におるからな。ぜったい手ェ離さへんから、安心しぃ」
 作之助は優しく、しかし確実な力を込めて太宰の肩を押した。崖の端に一歩、また一歩と近付いて、何度目かわからなくなるほど波間を見下ろした。
「夕日が消えた瞬間にいっせぇのせ、や」
 じわじわと、しかし心を決める十分な猶予は与えない速さで水平線にのまれていく夕日を声もなく見つめていた。太陽は見る間に小さくなっていき、半分が海に沈んだあたりから周囲の熱量が急速に落ちていく。水平線に落ちた一粒の涙のようになって、ぽつりと光る小さな楕円形になって――線香花火がぽたりと落ちるように、最後の一片がまさに溶けようとしていた。必死で淵にしがみついていた欠片が熱を失いにわかに白んで――瞬き半分の僅かな瞬間、ぱっと翠玉の煌めきを残して消えた。
「今の、見たか」
「翡翠みたいな色しとったなあ」
「錯覚じゃないよな!」
「ワシもちゃあんとこの目で見たで」
 飛び込むタイミングを測ることなど忘れていた。俺達すごいもの見たんじゃないか、これは世紀の大発見やろ――ひとしきり騒いだ後で、自分達がまだ当たり前のように生きていることをふと意識した。
「最後の日にええもんもろたな」
 作之助は綺麗に笑う。瞳の中にたった今消えたばかりの夕日が残って輝いていた。
「オダサク。もっと、生きていたかったか?」
 こんなに綺麗に笑う人があっさりと消えてなくなってしまうのは勿体ないなと太宰は思う。もっと彼の笑う姿を、声を、書く物を見ていたかった。出会った時に彼はもう自分の定めた終わりへと文字通り命を削って突き進んでいて、太宰はまさに彼が筆を擱かんとする瞬間に図らずも立ち会ってしまったわけだ。
「そやねえ……書きたいものはまだまだあったし、太宰クンや安吾ともっと話せたらどえらい何かを残せたかもしれへんなあと思うと、もっと生きとったかったなあ。……せやけど、ワシの人生はあそこで終わったからこそ完成されたとも思うのや」
 死ぬ気でものを書きとばして、そうして終わった彼の魂の続きがここにある。二度目の生は一度幕を引いた舞台の再上映でしかないのか、それとも――
「お前の『書きたい』と俺の『死にたい』は、似ていると思う」
 ペンを握り、文字を、意志を闘志を原稿用紙に灼き付ける度に彼の命は削られていく。それはさながら自殺のようであった。生きてやる、死ぬ気などさらさら無いぞと叫びながらも常に胸の内に死が巣食っていた作之助と、死にたい、終わりにしたいと孤独に喘ぎながら、それでも必死で活路を求めて彷徨った自分はきっと似ている。
「オダサク。俺達もうちょっとだけ、生きてみよう」
 自分はかつて、生きていく力とはいやになってしまった活動写真をおしまいまで見ている勇気だと書いた。それは一人きりではつらいことだ。しかしもし隣に共に見続けてくれる人がいたとしたらどうだろう。
――なんやこれおもんないなあ、終わったらええもん食べに行かへん? 劇場の暗闇の中、そんな風にこっそり話しかけてくる誰かが隣に座っていたとしたら。
「もう一度、生きてみよう」
 しばしの沈黙があった。やがて作之助は穏やかに目を伏せて、わかっていると曖昧に笑った。
「太宰クンとやったら、ええよ」
 作之助は瓶の蓋を取ると、中身を全て手のひらにざらざらと開けた。しばらく切なそうに見つめた後、勢いよく振りかぶって投げた。白い錠剤は風に乗って案外遠くまで飛び、あっという間に波に揉まれて見えなくなった。