嘘と密約

 午後一番の潜書を終え、なんとなく腹が減ったなと立ち寄った食堂には既に先客がいた。
「あっ、太宰さん! 潜書お疲れ様でした」
「太宰さん、こんにちはー」
 窓辺で何やら楽しげに話しこんでいた南吉と賢治は、足音をききつけて振り返ると揃って挨拶した。
「何してるんだ?」
「外で綺麗なお花を見つけてきたので、飾ってるところなんです」
 カーテンの開け放たれた暖かな窓辺には、ちょこんと可愛らしい一輪挿しが飾られていた。
「それ、花瓶じゃないよな……?」
 春を待ちきれず芽吹いたらしい小さな花が生けられているのは、随分と派手な色をした瓶——どうやらエナジードリンクの類らしく、落ち着いた内装の食堂にはいささか不釣り合いだった。
「ちょうどいい花瓶が見当たらなくて……流しのところに洗っておいてあったのを拝借してます」
 もっと質素なほうがお花には似合うんですけれど、これはこれで光が当たると綺麗なんですよ。賢治の言葉にほうほうと頷きながらも、太宰の思考は別のところにあった。
「エナジードリンクなんて、誰が飲んでるんでしょうね。司書さんかなあ」
「司書さんは甘い物好きだから飲まないと思うなあ……そうだ、乱歩さんなら誰だか当てられたりして!」
 太宰には思い当たる節があった。こんなものを使ってまで生き急ぐのは、あいつしかいない。
  

 織田の部屋へ真っ直ぐに向かう。ノックひとつ、返事を待たずに開けた先は昼だというのにカーテンを閉め切っていて、相変わらず薄暗かった。
「いくら太宰クンでも、返事くらい待ってから開けてほしかったなあ」
 机に肘をついてやや斜めな体勢のまま、ペンを動かす手を止めようとしない織田は素っ気なく呟いた。
「ちょっと待っとってな、もう少しでキリのいいところやから」
「昨日の夜も同じ事言ったきり、食事も手つかず」
 せっかく、丹精込めて手ずから握ってやったのになあ。わざとあからさまに落胆した声で、机の端に追いやられた握り飯を指先でつつく。ラップの下の海苔はすっかりしおれていた。
「後で温め直して食べるさかい、堪忍な」
 口数は少なく、さらさらと淀みなくペンが走る。集中力とわずかな狂気を孕んだ瞳がぎらぎらと熱っぽく光っていて、妙に艶めかしく見えた。
 延々と文字を生み続ける手を太宰は黙って掴んだ。筆が乗っているところを無理矢理に押し止められた織田はやっと目を上げた。執筆中の熱の籠った瞳にあからさまな苛立ちが浮かんだ。
「邪魔せんといてや」
「熱、あんだろ」
 片手で易々と握り込める痩せた手首は異常に熱かった。不機嫌そうに見上げる目は充血していて、明らかに無理をしている様子だった。
「大したことあらへん」
「嘘いえ、こんなもん飲んでまで書こうとするなよ!」
 机の足元に転がった派手な色の瓶をつま先で蹴飛ばして太宰は吠えた。ついでに屑入れに捨てられていた無数の錠剤のシートまで見つけてしまって、苛々と頭を掻きむしった。
「死なへんからて、それが書かへん理由には、ならんやろ」
 大丈夫やから、と繰り返す声には覇気がない。執筆の手を止められたせいか、気力と集中力で保たせていた身体の限界が急速に表れ始めていた。
「ワシのかつて愛用しとったお薬は現代ではそうそう手に入らへんらしいんやけどな、代わりにええもんがあんねんて……これ飲むと風邪ひきでもバリバリ書けんねん」
 ドリンクだけでも薬だけでも大して効かへん。一度に飲むのがコツやで。そう得意げに語る間にも目の焦点がブレていく。ぜほ、げほと重い咳を零しながら、いやいやと駄々をこねるように頭を振る。
「まだ、書き足らんのや……書いて、いたい……
 高熱に喘ぐ痩身がずるずると崩れて机に突っ伏してしまうと、太宰はいよいよもって泣きたくなった。
「し、司書さん呼んでくるから、待ってて」
 呼吸さえも満足にできない織田を見ているだけでどうにかなってしまいそうだった。
「待って、まってや……ただの風邪やて、言っとるやろ……そういうことにしてくれへんか」
 部屋を飛び出そうとしたところで、腕がぐいと後ろに引っ張られた。熱の籠った指先が太宰を必死に繋ぎ止めていた。込められた力はひどく弱々しかったが、太宰にはそれを振りほどけなかった。振りほどく勇気なぞないことを見透かされていた。
「オダサクの風邪、俺にちょうだい。何もできないからさ、だからせめて全部、俺のもんにさせて」
 背に回された手の熱が怖くて仕方がなかった。熱が消える日のことなんて想像したくもなかった。
……おおきに、太宰クン。でもな、あげられへんよ」
 その優しさと孤独が、太宰には痛くて仕方がない。