やがて春へと続く - 1/2

 夕方から胸元に絡みつくようになった重苦しい違和感は、日付の変わる頃には明らかな気道の狭窄へと変わっていた。
 一度こうなってしまえばもうどうしようもない。夕に軽く食べて薬を飲んだが、やはり気休めにしかならなかったか。これは朝まで長引く、と積年の経験がいやに冷静に判断を下すのを、酸素の足りないぼうっとする思考で受け止める。
 日が沈むと時を同じくして降り出した雨は催花雨にしては重く激しく、これではせっかく膨らみかけた柔らかな蕾も萎んでしまいそうだ。空模様が怪しくなるよりも早く不調を訴え始める脆弱な身体は、迷信じみた占いよりも余程正確に先行きを当てる。山頂の観測台とどちらが正確だろうか、と自嘲気味の笑いを零し、先生はぐったりと毛布に身を預けた。
「大丈夫ですか」
 そっと障子を開けた直次が気遣わしい目を向ける。あれだけ延々と咳き込んでいたのだ、放っておく方が難しいのはわかっていた。自分だって他人が苦しんでいたら、きっと同じことをする。
「朝には、落ち着くと、思……ッ、ぜっげほ、コほっ……ぅ」
 この体調では言葉を紡ぐのは少し難しい。無理に声を発せば呼吸ができなくなる。大丈夫、ちゃんと制御はできているから。言葉を諦め視線だけでそう伝えると、聡い弟は意味を理解してくれたようだった。天候が回復するに伴って不安定な呼吸も落ち着いてくることを、直次も知っている。眠る前に一度様子を見にきただけだ。
「おやすみなさい、兄さん」
 おやすみ、と口を動かすだけで返すと、直次は不器用な笑みを見せる。そのままそっと障子を閉めた。
 ひとりきりの静寂に再び包まれ、縺れそうな息を慎重に吐き出してみる。二度、三度目まではよかったが、四度目にはザラついた違和感が鎖骨の下あたりに引っかかってひとしきり咳いた。せっかくひいた額の汗がまたも滲むのにうんざりする。
 半身起こした状態で安静にしていればこれ以上悪化させることもないだろうが、満足に吐き出せない呼吸の数を数えることくらいしかできそうにもなかった。夜はまだ長い。

 これは少し、まずいかもしれない。
 ぐらりと目が覚めた。目が覚めたというよりは、呼吸が落ちて意識が揺らぎ始めていたのを、本能が警鐘を鳴らして引き上げたという方が近い。穏やかな覚醒ではなく、背に冷たいものが這うような怖気を孕んでいた。
 どれだけ経ったかわからない。まだ外が暗いことだけはわかった。
 悪化した原因は、急激に勢いを強めた雷雨だ。ざんざんと雨戸に打ち付ける音がここまではっきりと聞こえる。息もつかぬ豪雨を前に、欠陥を抱えた呼吸器は早々に仕事を放棄していた。
 身を起こしていてもまともに酸素が入ってこない。あっという間に視界が滲んで、両の目から溢れて零れる。頭の芯が痺れたように鈍く痛んで、冷静な思考を阻害していた。
 上手く力の入らない腕をなんとか突っ張って、重ねた毛布から身を起こす。それだけの動作で視界がちかちかと明滅して、思わずきつく閉じた瞼の奥に締め付けるような酸欠の苦痛が湧き上がった。
「っ、……せゥ、せヒュ……――ッ゛う、ぜ、ッぁ……
 酸素を通そうとしない胸元を強く擦る。外側から刺激を与えたところで通るようになるわけではないのだが、じっと耐えるにはあまりに枷が重すぎた。
 このままでは直に意識を繋ぎ止めきれなくなる。気を失えば呼吸が止まることはわかっていた。どこまで保たせられるかわからないが、起き上がって人を呼びに行くしかあるまい。
 痛みと酸欠感に何度も動きを止め、途方もない時間をかけて、散り散りになりそうな意志をかき集めて――しかし膝をつくまでが限界だった。
「ッ ぁ……っは、は、 ぁ っふ、ひゅ、ひッぅ」
 雨の音がどんどん近づいてくる気がする。ごうごうと耳元で洪水のように渦巻いて、思考をざぶりと塗り潰していく。
 肩に鈍い衝撃を感じた。倒れたのだ、と意識する間もなく気を失った。