白雲の声 - 2/2

 そのまま彼の家まで送っていくことにした。歩けるとは言うが、さりげなく触れた手首の不穏な熱さに迷わず人力車を呼んだ。
「ッ、は、は……っふ、ぅ……――ッ」
「こちらに凭れて……そう、なるべく深く、ゆっくりと息を吐いて」
 雪の残る地面を叩く車輪の音でも隠しきれない、熱い吐息。列車内では堪えていたのか、外の冷たい空気にいきなり曝されたせいかはわからなかったが、平常の呼吸を保つのは最早難しそうだった。
「すみ、ません……少しだけ、肩を貸して、ください……
 ことりと倒れてきた肩は痛々しく上下している。羽織をかけ直しつつ背を擦ると、ざらざらと砂の上を撫で回すような喘鳴が骨の間を苦しげに通り過ぎるのを感じた。
 聴診などせずともわかる。三年前と比べようもない状態だった。
 気管支だけでなく、肺まで炎症が慢性化しているのだろう。どれだけ無理を重ねたのか、どれだけ苛烈な環境に身を置いていたのか――静養すればじきに回復する、などと安易に言うことさえ憚られた。
 私の今の力量では、ここまで悪化させた喘息の対処はできない。今以上に悪化させないようにしつつ、他の感染症を拾わないように免疫力を上げるだけが精一杯だ。冷静な思考が淡々と答えを弾き出していた。
――否、私はその結論を否定する。今の私に敵わずとも、ありったけの知識と人脈と閃きをかき集めて、必ずや別の答えに辿り着いてみせる。
 そうでなければ、私は未来ある青年を無責任に死の淵へと放り出しただけの愚か者だ。

 坂を下りきったところにある商店の前で人力車は静かに止まった。啓司の体調を気遣ってあまり揺らさないように、しかし極力急いで歩を進めてくれた車夫に多めに支払って車を降りる。
 店の表はぴっちりと閉ざされていた。仕入れにつき外出中、と書かれた貼り紙が寂しく揺れている。何度も使い回され端の欠けた紙に、日が落ちて勢いを強めた寒風がからからと吹きつけていた。
「しまった、直次君から鍵を預かっておくべきでした。どうしたものかな、勝手口は――
 啓司は咳き込みながら軒先の鉢植えを指差した。
「今も、変わっていなければ……恐らく、そこに」
 彼の言う通りに鉢を持ち上げると、鍵の入った小さな巾着が見つかった。
 立て付けの甘くなった勝手口の戸を体で押すように開けると、古いもののにおいに出迎えられた。蔵に入れるほど保存に気を遣わなくてもいいもの、一時的に置いているだけのもの。廊下の両側に背の高さくらいで積み上げられた荷物の並びは、乱雑なようでいてどこか規則性を感じる。
 懐かしい光景だった。啓司が町を出てからは往診に出向くこともなくなり、裏手から出入りするのは久々だった。
 しかし、どこか記憶の中の景色と違う。かつて訪れたここは、もっと柔らかい気配があったはずだ。いつも誰かの声が聞こえていて、荷物を抱えた男達が狭い廊下をすれすれに通り過ぎて――
 人の気配のない商店は、突然の帰郷者を拒むかのように静寂に満ちていた。
「いつだったかな、往診の帰りにうっかり鞄をぶつけて荷物を崩してしまって、親父さんに叱られたのは――
 静けさを紛らわせようと、私はわざと少し大きい声で話しかけた。やはり迎えにいってよかった。久々に帰った家でひとり立ち尽くす姿など想像したくもなかった。
「啓司君?」
 啓司は何も言わず、外と内の境界線で足を止めたまま棒立ちになっていた。両の目の中に、彼にとっては懐かしく見えるであろう景色が映っている。しかしそれは安い硝子玉に映したように焦点が定まっていなかった。
 着物の袖がさらりと擦れる。白い指が近くにあった荷物に伸びて、挟んであった紙切れをそっと抜き出した。『六日 東京行キ 保留』――紙にあった文字を目で追う。色のない唇が何か呟いた。その声はあまりに小さくて聞き取れなかった。
 ぐっと手に力がこもった。走り書きの紙はくしゃりと握り潰され、啓司は音もなくその場に崩れて膝をついた。
「大丈夫ですか。今横になれるように支度しますから、」
「本当に、帰ってきて、しまったんですね」
 ひゅうひゅうとか細い吐息を落としながら、啓司は切れ切れに笑った。次第に咳が強くなり、肩を喘がせて俯く。背に触れると、喘鳴の震えとは別に小刻みに揺れているのがわかった。息を継ぐことさえままならないのに笑っているのだ。は、はッ、と短く吐かれるのは苦しい呼気ではなく、さざめくような嘲笑だった。
「ごめん、なさい」
 気づけば私の手まで震えていた。上手く動かせない手で、ぎくしゃくと背を擦った。
「ごめんなさい」
 あの日送り出したのは誰だ。進学したいが身体に不安がある、と言った彼を励ましたのは、世界を見ておいでと無責任に告げたのは誰だ。元より弱い彼の身体をこれ以上どうしてやることもできないのに、他人事のように行かせたのは、誰だ。
 壊れたように謝罪の言葉を繰り返す彼を、抱きしめてやることさえできず震えているくせに。
「間違いじゃない。行ったのは、間違いじゃない。いいかい、必ず、必ず私が力になる、だから……
 此の期に及んで許してくれとでも言うつもりか。
「啓司君……いや、違うな。――先生。平野、先生」
「やめて、ください……私はもう、教師では、ないんです」
「いいえ、平野先生。私が貴方を、必ずそこに戻す」

 初めて先生と呼ばれた日のことを、私は生涯忘れない。ようやく医師の資格を得て晴れ晴れと故郷に帰り、初めて診た患者に先生と呼んでもらえたあの日のことを。まだ幼くも賢そうな両の目が、真っ直ぐに私を見据える瞬間を。そうして私は医師になった。彼に呼ばれて、医師になれた。
 先生、平野先生――私がそう呼ぶ度に、彼は喘ぐ背を震わせてかぶりを振った。細い指が私の胸元を責めるように握りしめていた。ぞっとするような空虚な笑い声は、いつしか嗚咽に変わっていた。