夕霞の温度 - 3/3

「直次、」
 その日の夕暮れの帰り道、兄はふと足を止めると僕を呼んだ。
「うちの仕事は好き?」
「うん、好き。見たことないものが次から次にやってくるし、荷運びのみんなかっこいいから。……兄さんは?」
……僕も好きだよ」
 好きだというわりに、兄の表情は明るくはなかった。やがて自分の憂鬱な表情に気がついたのか、兄はふっと目を伏せると次には緩く口元に笑みを浮かべる。何かを言い出そうとして迷っている時、大抵兄はそういう顔をした。
「僕が支える。兄さんが父さんの跡を継いで、僕が荷物を運ぶ。そうしたら兄さんは外で仕事しなくて済むでしょう?」
 きっと兄には不安なことが多すぎるのだろう。家のこと、僕のこと、そして自分の身体のこと。兄はいつもひとりで考えすぎる。
「そうだね、ありがとう。……それが一番いいのかもしれない」
 兄は少し困ったように笑った。
「直次、あのね……僕はね、もっと遠いところに行ってみたいんだ」
「遠いところ?」
 遠いところと聞いて僕の頭に真っ先に浮かんだのは、鉄道駅のあるという隣町だった。大人の足で一時間と少しかかるというその町に、僕はまだ行ったことがない。きっと兄も行ったことがないだろう。
「そう、遠いところ。……例えば、東京とか」
「東京? だめだよ、東京は人も建物もいっぱいだって聞いたことある……きっとまた病気するよ」
 しかし兄の答えは僕の思うよりも遥か遠くを指していた。僕も兄も生まれ育ったこの町から出たことがないのは同じなのに、兄の見据える先があまりに遠いことにただ驚いた。驚いて、次に思ったのは兄の身体のことだった。
……そうだね。ごめんね」
 兄がどうして謝ったのか、僕にはわからなかった。身体を壊すようなところに行ってほしくはない、そう思って口にした言葉が兄の顔を曇らせる理由がわからなかった。
「そんなところ行かないでよ。僕が仕事手伝うから!」
「それは頼もしいね、ありがとう」
 兄の手が何度も確かめるように僕の頭を撫でた。それきり兄は二度と同じ話をしなかった。
 
 その年の暮れに兄は東京の師範学校に合格し、次の春には家を出て行った。
 あの日遠いところに行きたいと言った兄を思い出す。何かを決意したような、秘密を打ち明ける機会を何度も伺ってようやく口を開いたような、そんなぎこちない会話の空気まで蘇るようだった。今ならわかる。あの時も兄は無理をした笑みを浮かべていたのだろう。もしかしたら、あの時兄は僕にだけは否定されたくなかったのかもしれない。僕なら否定しないと信じて口を開いたのかもしれない。
 上手く言葉にできないだけでわかっていた。長兄が家業を継がないことは普通ではないということも、生来身体の弱い兄に周りの人々が向ける視線は同情半分敬遠半分であることも。あからさまにお前が頼りだと言われた時、何も言い返さない兄の代わりに怒った僕を宥めるのは、いつだって一番悔しいはずの兄であったことを。


 

「兄さん」
 なに? 兄は柔らかに答える。誰にも礼儀正しい兄が自分にだけは少しだけくだけた態度になるのを目の当たりにする度に、ああ僕だけが彼の弟でいられるのだと嬉しくなるなんて、気恥ずかしくて言えるはずもなかった。だからこれは僕の胸の内にだけしまっておくつもりの感情だ。
「たまには、昔みたいにうちで夕飯食べませんか。今日は北方からの春一番便が届いたんです。懐かしい顔も勢揃いで」
 断るかな、と少し思った。兄はあまり人の多いところを好まない。それに兄にとってあの頃の思い出は、あまり居心地のいいものではないような気がしていた。
 それでも声をかけずにいられなかったのは、今日の夕焼けがどことなく在りし日を思い出させる色をしていたからだ。あの日に言えなかったことも、支えられなかった悔しさも、今ならどう変えられるだろう。
「ありがとう。……そうだね、たまにはご相伴にあずかろうかな」
 兄は笑った。ようやくこの雪郷にも春が来たね、と嬉しそうに西日の空を見上げていた。
……兄さん」
 黙って差し出した手を、兄は笑ってとってくれた。十年前も今も変わらず、兄の手はやはり少し冷たい。
 つなぐと柔らかに融けるくらいが、僕たちにはちょうどいい。