「おはようございます。直次、おはよう」
「あっ、兄さん! おはようございます」
話しているとちょうどその兄が居間に顔を出した。
兄は食卓につく前に、まずうちで働く全員に挨拶をして回る。家族同然に慣れ親しんだ彼等に毎日律儀に挨拶をするのは、兄がいずれはこの家の主になるからだ。
「直次、何の話をしていたの?」
ようやく戻ってきた兄の手には小さな包みが握られていた。英語で何か書かれた銀色の包みの正体は多分チョコレートだろう。兄の身体を気遣ってか、荷運びの男達は時々父や母の目を盗んでは舶来のお菓子をこっそり握らせてくれる。
「僕の背がこれからどんどん伸びるよ、って話」
兄の身体の心配をしていたことは言わないでおいた。人から心配の目を向けられる度に兄の目が曇ることを、僕は知っていた。
「うん、直次はきっと今に僕の背を追い抜くよ。父さんも背が伸びるのが遅い方だったって、この間聞いた」
「……大きくなりたいけど、兄さんの背は抜きたくない」
「どうして?」
「だって、僕は弟だから……」
背を追い抜いてしまったら、兄がどこかにいってしまうような気がしていた。そんなことはないとわかっているけれど、兄が兄でなくなってしまうような気がして嫌だった。
「それなら、僕は抜かされないようにしないとね」
兄は笑って僕の頭を撫でた。その手がいつにも増して優しいようで、少しこそばゆかった。
荷運びの一団が次の町へと出発するよりも少し早く、僕達は学校へ行く。
「……兄さん」
黙って差し出した手を、兄は笑ってとってくれた。人通りなどないに等しい田舎道、別に手をつなぐ必要などないのだが、兄の少し冷たい手のひらは落ち着くのだ。
沿道に春色の風が吹く。ちょうど見頃を迎えた桜が涼しい朝の光にそよいで、目の前をくるくると舞い落ちる。捕まえようと手を伸ばしたが、ひらりと逃げてしまった。
あと一歩、あと一歩先にと足がはやる。気がつけば兄の手を離し、気まぐれな春風に夢中になっていた。兄は少し後ろからゆっくりと歩いてくる。兄さんもおいでよ。そう言いかけたが、走ると咳の発作を起こすのだということを思い出した。
兄は春を追いかけることはせず、道端に落ちていた花をひとつ拾った。咲き初めの綺麗な形のままに落ちた花を手にとって、そっと口元に寄せると吹いて飛ばした。
「とれた! ほら!」
「よくできました。遅れるといけないし、そろそろ行こうか」
兄の飛ばした花を僕はようやく捕まえた。白い花を左手に、右手にもう一度兄の手をとって、朝日の眩しい坂道をゆっくり登っていった。
学校に着く頃には、花は汗でしっとりと小さくなっていた。
「啓、おはよう!」
後ろから近づいてきた聞き慣れた声に僕が振り返るのと、走ってきた勢いのままにぽんと肩を叩かれた兄が軽くよろけたのはほとんど同時だった。
「なぁ啓、前回の試験の解答見せてくれよ。最後のひとつがわからなくてさぁ」
「いいよ。教室で話そう」
兄のことを啓、と呼ぶのは兄の同級の新見だ。彼はよくうちに遊びにきては兄と長々と話をしたり、一緒に宿題を片付けたりしている。勉強に飽きると僕とも遊んでくれた。
「直次はいいなぁ。いつだって兄ちゃんに教えてもらえるんだろ」
「えっ、うん。そうかも」
大げさにため息をつく新見に、僕はしどろもどろに頷いた。新見の言うとおり兄は勉強を教えてくれることもあったが、正直なところ僕は勉強をするよりも家の仕事を手伝う方がずっと面白いと思っていた。それに兄は長く話すと咳の発作が出てしまう。本当の気持ちを言うならば兄ともっと色々な話をしてみたいけれど、兄の不安定な体調はそれを許しはしないだろう。
「直次は教えなくてもよくできるよ」
慌てた僕の内心などつゆ知らず、兄はさらりとそんなことを言ってのける。――かっと耳たぶが熱くなった。兄がそんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。そうまで思われているのに、あまり熱心に勉強しない自分が途端に恥ずかしくなった。
「おい啓、そりゃないぜ。不出来で悪うございました!」
「不出来だなんて思ってないよ。中学の入学試験、受けるんでしょう」
「嘘だろ、知ってたのか?」
「僕だけじゃなく、みんな知ってると思う」
尋常小学校の過程を修了後、中学校へ進学すればその先で高校や専門へも進むことができる。しかし兄や新見のように高等小学校に進んだ者の多くは学業をするのはそこまでで、卒業後は家業を継いだり遠くへ出稼ぎに行ったりした。義務課程以上の学校に通わせてもらえるだけで恵まれていたのだ。
新見が試験を受ける。それを僕はたった今初めて知ったが、そのこと自体に大した疑問は抱かなかった。きっと彼は、許されるならばもっと学問を続けたいとずっと思ってきたのだろう。下の弟妹たちのことを考えて言い出せずにいたというのは、はっきりとものを言うように見えて実は気弱な彼らしいと思った。
「学年いち不出来な新見が中学に! ……って、あっと驚かせてやりたかったのになぁ」
「だから、誰も不出来だなんて思っていないよ。下に弟妹が八人もいる大変さは僕には計り知れないけれど、責任の重さは少しわかる。……これでも僕も長兄だから」
「ありがとな。啓にそう言ってもらえるだけで、気ぃ楽になるわ」
多くの子どもを抱え経済的に余裕のない家では、家督を継ぐことがほぼ決まっているに等しい長男に許される教育は精々高等小学校、良くて中学校までだった。
二年後には僕も尋常小学校を修了する。『勉強したければ中学に行きなさい、学費なら僕がどうにかしてあげるから』――兄がそう言ってくれたことがあった。
本当は兄に聞き返したかった。『兄さんこそ、本当は進学したかったのではないですか』と。それは口にしてはいけないことだとどこかでわかっていた。だから僕は素直に考えておきます、と答えたのだ。
「直次、また放課後にね」
小さく手を振る兄に、僕も手を振り返した。さっきまでつないでいたあの手はきっとまた冷え始めているだろう。日に焼けることを知らない白い腕に、今の僕はまだ寄りかかることしかできない。
周りのみんなをまとめて支えられるほど強くなれなくても、せめて兄だけでも支えられるようになりたい。当分追いつけそうにもない兄の背中に、小さな決意をぶつけるだけが精一杯だった。
