医院に帰りつくまでに雪は随分と小降りになった。火を落とした診察室ではなく奥の自室へと招き入れると、先生は黙ってついてきた。
「今温かい飲み物を用意しますから。着替えて少し待っていて下さい」
予備の着物を渡すと、先生は静かに濡れた羽織を脱いだ。袖口に入り込んでいた雪がぱさぱさと落ちる音を背にしながら、私は湯を沸かし始めた。
「濡れた着物はそこに掛けておいて下さい。羽織は……ああしまった、最近は洋服で過ごしてばかりいるから失念していた……」
何か羽織れるものはないかと振り返ると、先生はちょうど身頃を整えているところだった。胸元に走る赤い引っ掻き傷に、腰回りの布を手繰り寄せる仕草に、窶れゆく病身を否応なく意識させられて思わず視線を外した。
「すみません、そこの白衣を羽織っていてもらえますか。汚れていて申し訳ないですが」
先生は何も言わず白衣を手に取った。肩の余る白衣を引っかけたまま椅子に腰掛け、ぼんやりと宙に視線を向けている。体調は今のところ落ち着いているように見えたが、喀血するときにだいぶ咳き込んだのか顔色は優れないままだった。
痛いほどの静寂を経てようやく沸いた湯で茶を煎れる。先生は一言ありがとうございます、と言ったきり口をつけようとしなかった。指先だけ湯呑みに触れさせて、ただじっと俯いていた。
「池沢先生」
掠れた声に、私はなんですか、とだけ返した。
「私は、死ぬんですよね」
湯気の立つ湯呑みの水面を見つめながら、先生はぽつりと言った。
「これからは、ひとつひとつ、お別れをしていく時間になるんですよね」
答えを求める声音ではなかった。辿り着いた結論を声に出して確かめているようにも聞こえた。
「何かを遺したいと思うのは、すでに生きることを放棄している、そういうことになるのでしょうか」
もう、わからなくなってしまったんです。曖昧に笑う先生は、これまで見たことがないほど弱々しく見えた。
「心残りは、少ないに越したことはないと思います」
先生が心のままを話すのなら、私も思ったままを口にするべきだ。上辺だけの同情や優しさを彼はもう必要としていない。
それでも、終わりゆくことを前提に話をするのには心が引き裂かれるような痛みを伴った。先生のように冷静にはなりきれなかった。それが所詮は他人事であると意識のどこかで考えている何よりの証のようで吐き気がした。
「仁美さんに、」彼女の名を口にした瞬間、淡々としているように見えた先生の頬にわずかな寂しさが灯るのを私は見た。
「傍にいさせてくださいと、言われました。嬉しかった……けれど嬉しく思うよりも先に、私は肺を病んでいて遠からず死ぬのだ、そんな思いがよぎりました。だから、断ることに迷いはなかった。迷いはない、そんな自分の心を認めた瞬間に、私はもう死ぬつもりでいたのだなと気がついたんです」
つ、と頬を透明な涙が伝った。先生はそれを隠すように手の甲で押さえた。
「まだ、死にたくない……初めて本気でそう思ったんです……。呼吸ができなくて、ああこのまま死ぬのかもしれないと思った時よりもずっと強く、死にたくないと思った……」
ぽたぽたととめどない雫を封じ込めるように先生は目を固く閉じた。気丈な頬がくしゃりと歪んで、きつく下唇を噛んだ。
「池沢、先生……たすけて、」
嗚咽混じりの声はすぐに咳に変わった。ぜぅ、ぜぅぅ、と耳を塞ぎたくなるような喘ぎに震える背に私は手を伸ばした。骨の浮いた頼りない背に触れて、少しだけ引き寄せた。
はらはらと落ちる涙が胸元に染みていく。
ああ、私は今日この日のために医者になったのだ。どうしようもなく、助けることはできないという事実を共有するためにここにいるのだ。身体を治すのではなく、目の前の人生の全てを肯定するために寄り添うのだ。
喘鳴のひどい呼吸に合わせて背を擦る。薬より言葉より、今必要なのはこの無力な手であると信じて。
