紅藍 - 1/2

 先生がまだ帰らない。俺じゃ駄目なんだ……頼む。細雪が降る中医院を訪ねてきた藤倉さんは、仔細を語らぬままに深々と頭を下げた。
 何があったかなぞ訊かなくてもいいと思った。先生と私の関係性は、単なる医者と患者の関係だと言うには年季も深さも過ぎるものがあるが、では友人や家族かと言われるとそれも違う。一言では言い表せない繋がりであるからこそ、それが必要とされることもあると感じていた。
 根雪になって久しい、底冷えのする町を往く。次の年を迎えるための支度に追われる慌ただしさも日が沈むと密やかになって、それぞれの家の中に小さく詰め込まれていった。次々降ってくる雪に半ば埋もれた轍を踏みしめる音だけが凍みる夜だった。
 先生にだって一人になりたいときはあるだろう。常に人に顔色を窺われ、大丈夫か、つらくはないかと壊れ物のように扱われるのに疲れて、誰にも会いたくないときがあるだろう。できることならそっとしておいてやりたかった。しかし彼の身体はそれが罷り通らないほどに弱い。それに今の彼の精神状態はあまりに不安定だった。
 誰だって肺の病だと告げられれば平静を失う。精々養生することです、と医者はお決まりのように口にするが、それはつまり長期的な死の宣告にも等しい。今の医学では治療に限界がある。奇跡のように治ったという話が人々の間を駆け抜けてつかの間の救済をもたらしたりもするが、それは奇跡にさえも縋るほどに全てがまだ未知数だということの証明に他ならない。
 まるで若い命を好んで摘んでいくかのように、未来ある若者から斃れていく。血を喀いて窶れて死んでいく。
 先生もまた、その因果に絡め取られようとしているのだった。

 せせこましい家並みの隙間にぽつりと取り残されたような空き地に、雪に白む細い背中が見えた。朽ちかけた木箱に浅く腰掛け、背をこごめて、深雪に響く咳をしていた。
「啓司くん」
 やはりここだったかと思った。昔から思い悩むことがあると彼は一人でここを訪れるのだ。ふと時が遡ったかのような錯覚に包まれて、久しく口にすることのなかった呼び方が口をついて出ていた。
「風邪をひきますよ」
 わざと窘めるような言い方をした。敢えてそう言うことで、孤独に引き摺られすぎるきらいのある彼をこちらに引き戻せることを知っていた。
 そうですね、と先生は掠れた声で呟いた。ゆるりと上げた視線が交わる。静かな瞳に感情は見えなかった。
 唇の端に乾き始めた血がついている。喀血したのもそのままにどれだけの間ここにいたのだろうか。見咎められていると知ってか知らずか、先生は爪の先で血の痕を引っ掻いた。何気ない仕草がひどく退廃的に見えた。
「帰ります。……ご心配を、おかけしました」
「その恰好では心配されます。少し、寄っていきなさい」
 本当に誰にも会いたくないのなら、ここに来るはずがない。
 これまでここで色々な話をしてきた。年頃らしい他愛もないことから、家族の前では口に出せない澱んだ感情まで。教師になりたい、東京の師範学校に進学したいのだと初めて打ち明けてくれたのもこの場所だった。
 一人になりたいように見えて、彼は私が迎えにくるのを待っている。そんな確信めいた思いに背中を押されて、私はいつも声をかける。