「池沢、せんせい……?」
おずおずと啓司が呼びかける。先生と呼んでいいのか迷っているような声に、池沢は背中に電流が走ったかのように姿勢を正した。
「はいっ、なんでしょうか」
「池沢先生が、これからは僕をみてくれるんですか」
先生と呼ばれるのはこれが初めてだった。幼い瞳に一心に見つめられて、池沢は嬉しいのと気恥ずかしいのが入り混じったような心地がした。
「そうらし……そうです、これからは僕が啓司くんの診察をします。よろしくお願いしますね」
「よろしく、おねがいします」
ぺこりと頭を下げる啓司を前にして、池沢は背筋が伸びるように感じた。彼が自分にとっての初めての患者、僕を初めて先生と呼んでくれた人だ。
「さて、と。早速ですが、少し背中をみせてくださいね」
池沢がそう言うと啓司ははい、と小さく返事をして、慣れた様子で着物の上半身を脱いで背を見せるように座り直した。
「ありがとう。……随分としっかりしているんだね。いま何歳ですか」
「八歳、です」
八歳なら医者の診察など泣いて嫌がる子もいるだろうに、本当に大人しい子だ。初めて受け持った患者に初診察早々嫌われずに済んで本当によかったと内心ほっとしながら、池沢は少年の細い背中の、肩甲骨の間あたりにトン、と指を置いた。
診察し始めてすぐに気がついた。彼はこの年頃にしてはとても痩せた身体をしていた。この家の様子を見るに食べるのに困るほど困窮しているというわけではなさそうなので、元々食が細いか、長く患っていてあまり食べられないのだろう、と池沢は思った。
トン、トンと指を背中の中心まで下げていくと、ふいに彼は咳き込んだ。こんこんと弱く咳き込む度、呼吸に微かな異音が混ざるのが聞こえる。ひゅうひゅうと胸の中に風が吹くかのような音は幼い身体を内側から引っ掻いているようだった。
「先生……ッけホ、こほ……もっと僕が大きくなったら、苦しいの、治りますか」
啓司はぽつりと呟くように言った。突然の問いに、池沢は一瞬答えに詰まってしまった。
彼のこの症状――喘息は今の医療ではまだ完全に治せる病ではないし、聴診してわかったことだがどうやら彼は右肺の機能が少し弱いようだった。何らかの病によるものではなく恐らく生まれついてのものであり、つまりそれは――
「……治らなくても、直次と……弟と、外で遊べるくらいにはなれますか」
答えに詰まったのを彼は敏感に察知した。不安や恐怖ではなく諦めを滲ませた、幼い声には似合わないその言葉に池沢は慌てた。
「あ、ああ。なれるよ、大きくなったらきっと、外で遊べるようになる」
池沢は油断していた。まだ幼い彼がこんなにも言葉裏の不安を、迷いを感じ取るとは思っていなかった。
「先生が、治してくれますか……?」
啓司はこわごわと、静かに顔色を伺うような目をして池沢を見た。それは八歳の子どもとはとても思えなかった。閉じた障子の向こう側で大人達がひそひそと押し殺した声で病状を話すのを、診察した医者の声音がふいに固くなるのを聞くとはなしに聞いてきた、大丈夫だよと嘘をつく時の顔を熱に浮かされながらに何度も見てきた、そんな目をしていた。つい今しがた自分が口走ったありきたりな励ましの言葉の裏に隠しきれない自信の無ささえも、幼い彼は簡単に見抜いているような気がした。
「僕はまだ医者になりたてで、今までの先生みたいにうまくはできないけど、でも……」
咄嗟に取り繕うように言葉を並べてしまってから、後に続くものに困って池沢はがしがしと頭を掻いた。
医者だなんて偉そうになんだ、先生と呼ばれたって、まだ何一つ満足に出来やしない、目の前の子ども一人だって安心させられないじゃないか――
「ありがとう、池沢せんせい」
ふいに小さな手が、池沢の手をそっと握った。
「大丈夫。せんせいの言葉は、嘘じゃないって、思うから」
先生、次はいつ来てくれますか。けほけほと弱い咳をしながらも嬉しそうに問う啓司を、池沢は驚いて見つめた。
彼はにこりと年相応の笑顔で笑ってみせた。それを見ているうちに何故か突然に涙が溢れ出してきて、池沢はぽたぽたと零れる涙をそのままに小さな彼の手を固く握り返した。
せんせい、どうして泣いてるの、ごめんね――突然のことに慌てる啓司の手を握ったまま池沢は泣いた。いつか、いつの日にか、この子が人の顔色を伺うことなく、心から幸せだと笑えるようにしたい――そんな医者になろうと、池沢は心に誓った。
「どうだったね、初めて先生と呼ばれた気分は」
帰り道、老医師は池沢に問うた。
「嬉しくて、同時に辛かったです。まだ何一つ上手く出来やしないのに先生だなんて呼ばれるのは、申し訳なくて……」
いきなり泣くだなんて、あの子にはさぞがっかりされただろうな、と池沢は落ち込んでいた。次会うときにはどんな顔をして会えばいいのか、いやそもそもあんな様子じゃ安心して任せられないと、彼の両親から嫌な顔をされないだろうか――
「半人前だろうがいくら自信がなかろうが、あの子にとっては先生はただひとり、お前さんだけなんだからな」
しっかりやれよ、と老医師は池沢の背を叩くと、いつもの颯爽とした早歩きで横を追い抜いていった。
池沢は顔を上げる。前を歩く自分より背が低いはずの老医師の背中が、どうしようもなく大きく見えた。
いつか自分もあんな風に余裕のある、誰からも慕われる医師になれるだろうか。いつかあの背中に追いつける日は来るのだろうか……少しでも追いつきたくて、一日でも早く彼のように自信をもって先生と呼ばれる人物になりたくて、池沢は精一杯の早足で老医師に追いつくと隣を並んで歩いた。
そんなにくっついて歩くな、邪魔だろう――久々に聞く老医師の小言に思わず笑いながら見上げた空は、清々しく晴れ渡っていた。
