スプリング・エフェメラル - 3/4

2020 0309

「それ、早速読んでるんだ」
 サイドテーブルに置かれた本は品の良い紺色のブックカバーをかけられて、大切そうに扱われている。昨日の夕方に渡したというのに、栞がもう半ばまで届こうとしていた。
「夜に少しね。眠れないときに本があると、心が落ち着くから」
 夜更かししては駄目だって、よく看護師さんに怒られるけど。汀は曖昧な顔をして言った。
「眠れないのか?」
「病院の夜って、案外うるさいものなんだよ。看護師さんが廊下を走っていく足音とか、遠くからサイレンが近づいてきたりとか、誰かの泣き声とか、色々」
 だから、そういうときは布団をかぶって小さなライトを点けて、文字の世界に逃げる。そうしたらいつの間にか朝がくる。簡単でしょうとでも言いたげに、汀は少し笑った。
「明るくなるとね、夜と同じ音が聞こえてもうるさいとは感じないんだ。心もざわつかない。不思議でしょ」
 汀の声はふわふわとしている。世界になるべく波風を立てないように、怖いものを起こしてしまわないように――ひっそりこっそり身を潜めていれば、いつの間にか暗闇を抜けて晴れた空の下に出られると信じて待っているかのような声音でそっと喋る。
 前からこんな風だっただろうか。学校でよく話していた頃はもっとはっきりとしていたように思う。長い入院生活が変えてしまったのだろうか。
「好きな本を好きなときに読めるのはやっぱりいいね。最近あまり活字に触れられていなかったんだけど、集中して読んだら思い出せた。一也のおかげ」
「別に、俺はただ代わりに借りてきただけだから」
 俺はまだ言い出せずにいた。その利用者カードはもう二度と使えないと伝えなければならないのに、咄嗟に嘘をついてまたいつでも借りてきてやるよと大見得を切ってしまった。感謝されるどころか、最低だ。
 汀と俺は友達と呼べるほど親しくつき合ってきたわけではないと思ってきた。廊下でばったり会えば話したし、たまに待ち合わせてどこかへ遊びに行きもしたが、普段最もよくつるむのは部活の仲間達で、それは汀も同じことだった。
 しかし現状は俺の他にここを毎日訪れる人はいない。今だったら、汀と俺は友達だと言えるだろう――単純につき合いの多寡を友人関係の成立条件とするならば、だが。
 どうして汀の友人達は一向に訪ねてこないのか、汀の病気が何なのか。いつまでこうして入院していなければいけないのか――知りたいことは沢山あって、日々増えていってもいた。難しいことをぐるぐる考えるのは得意じゃない。できたら思っていること全部吐き出してしまいたい。しかし教えてくれと口にしたら最後、今のぬるい関係は呆気なく崩れてしまうだろう。
 暇が増えたら、考えることも増えた。授業と部活がなくなってたった一週間でこの有様だ。もう何ヶ月も入院している汀は、一体どれだけのことを考えているのだろう。口にできずに溜め込んでいるのだろう。
「その本って、小説?」
「えっとね、書簡集っていって、手紙のやりとりを一冊にまとめたもの」
 興味あったりする? 汀は嬉しそうに訊いた。
「いや……ちょっと気になっただけ。俺全然本読まないからさ、なんか難しそうだなって感想しか浮かばない……」
 汀の友達なら、きっと内容にも興味があるだろう。本もよく読むだろうし、好きな作品をおすすめしあったりするだろう。でも相手が俺ではそういうことはできない。趣味も興味の領域も重ならない。
 汀は俺と過ごしていて、楽しいのだろうか?
「これは批評家と詩人の往復書簡。このふたりは、言葉を交わすことで大きな悲しみを乗り越えようとしているんだ。言葉を取っ替え引っ替えして、膨大な言い換えの積み重ねの中から、悲しみそのものを目に見える形にしようとする」
 汀が話したそうにしていたので、俺は黙って聴くことにした。気の利いたことは何ひとつ返せないけれど、言葉の吸収剤になるつもりで聴いた。
「僕はこの人達みたいに小説や詩を書くわけではないし、言葉もあんまり持ってない。だから表してみろと言われたところで上手くできない。でも表現の仕方を知らないだけで、感情はちゃんと僕の中にも存在する。存在するんだってことに気づかせてくれる。これはそういう本」
 気が向いたら読んでみて。汀はそう言うと、新聞記事の切り抜きを俺にくれた。
「僕はもう読んだから、次は一也に渡しておくね。いつか暇で暇で仕方がないときに思い出して気が向いたら、読んでみて」
「今より暇な時間って、この先訪れるのかな」
「あるよ。生きていればきっとある」
 色褪せた新聞記事に書き込まれた「おすすめ!」の文字を眺める。この文字がすっかり薄れて読めなくなる頃、俺と汀はどこでどんな毎日を過ごしているだろう。大学を卒業して、就職して働き始めて、それでもたまに連絡を取り合ったりでかけたりしているだろうか。それとも全く会わなくなって、互いの日々を生きているのだろうか。
 あっという間に大人になって、こんなおかしな春休みのことも、今日の会話も忘れてしまうのだろうか。

2020 0310

 病室を訪れると、ベッドはもぬけの殻だった。
 しばらく待っていたが、帰ってくる気配すらない。看護師に尋ねてみようかとも思ったが、誰も彼も忙しそうに立ち働いているのでなんとなく憚られた。
 どこに行ったのだろう。この個室にはトイレもシャワーもついているからわざわざ出て行かなくても済ませられるし、何か必要なものがあるときはその都度看護師に頼んでいたから、これも違う気がする。敷地からは出られないとしても院内を散歩するくらいは許されているだろうから、気晴らしに行ったのかもしれない。いつもと違う景色を求めてラウンジで本でも読んでいるのかも。
 そろそろ鬱陶しくなってきたのかもしれない。部屋にいたら俺が来るとわかっていて、敢えて出かけたのかもしれない。
「……帰るか」
 誰もいない部屋に落ちた呟きは、白いシーツに吸い込まれてすぐに見えなくなった。

「あれ、今日は早いね? ……違うか、僕が遅かったのか」
 どこかもやもやとした気分を抱えたまま病室を出て、そこで汀と鉢合わせた。
「検査にいってた。ちょっと時間かかっちゃった」
 一也、どうしたの? なんか変な顔してる。汀は普段と変わらぬ笑みを浮かべてみせてからようやく、ああそうか、と納得したように頷いた。
「車椅子乗ってるのが変な感じする? 目線合わないしね」
 ここが病院だということを差し引いても、昨日まで普通に立って歩いていた人がいきなり車椅子に乗って現れたら、そりゃあ驚きもする。
「歩けないわけじゃないんだけど、検査の処置の傷が化膿するといけないから、今日いっぱいはあんまり動いちゃいけないんだって」
 大げさだよね、と汀は快活な笑い声をたてた。――元気すぎる笑い方だった。
「今日はやけに話すんだな」
 凪いだ海みたいな光を湛えた瞳が一瞬大きくなって、すぐに俯いて見えなくなった。
 目線の下にある細い肩が僅かに揺れた。上から見ると骨がとんがっているのがよくわかる。病的な細さ、というものを初めて意識する。
「……ごめん。変なのは、僕の方だ」
 今日は、帰って。消え入りそうな声で汀は告げた。
「多分余計なことばかり言っちゃうから。今日の僕は嫌な奴だから。せっかく来てくれたのに、ごめん」
「ベッドまで車椅子押すよ。そしたら帰る」
 わかった、と汀はひとつ頷いて、ハンドリムから薄い手をそっと離した。爪の先まで綺麗に整えられた指に、煤みたいな汚れがついていた。車椅子を扱うのには向いてない手だな、と思った。
「汀が嫌な奴だったことなんて、ねえよ」
汀は小さく首を横にふった。
「汀はいい奴だよ」
 今は何を言っても否定されるだろうと知りつつ、口にせずにはいられなかった。

2020 0311

「九年前の今日って、俺達小学何年生だった?」
 なんとなく点けたままにしているテレビには、色とりどりの千羽鶴が映し出されていた。ピンと尖った羽の先が晴れ渡る青空に向けて伸びている。そよ風に揺られて、大きな花束みたいだった。
「ええと……小学二年の終わりの頃だと思う」
 汀はじっと画面を見つめていた。一瞬にして何もかもを奪い去られた跡地にようやく根を張った、儚い花々の映像を両の瞳に焼きつかせようとしているみたいに見えた。
「あの日のこと、何か覚えてる」
「いや、ほとんど覚えてない。母さんが小学校まで迎えにきて、手を繋いで家まで帰った。夜遅くに父さんが歩いて会社から帰ってきて、出迎えた母さんが玄関で泣いて抱きしめてた。それくらいしか確かな記憶じゃないと思う」
 僕も、と汀はほっとしたように眉根を下げた。
「何か大変なことが起きたんだ、ってことくらいは幼心にわかったけれど、それ以上のことはぼんやりしてたよね」
 今だってわかったような気になっているだけで、ずっとぼんやりしたままなのかもしれない。汀は独り言のように呟いた。
 同じテレビ番組を観て、アナウンサーの淡々とした語り口を聞いて、あの頃何度となく目にした、嘘みたいな映像の数々に今一度触れて。当時のことをよく覚えていないという点では汀も俺も変わらないが、見えているものはきっと全く違うのだろう。
「もしも今この瞬間に大切な誰かが突然死んでしまったとして、何ひとつ後悔がないなんてこと、あり得ないと思うんだ。どれだけ日々を大切に過ごしていても、毎日感謝や愛情を伝え続けていたとしても、ひとつくらいは必ず後悔すると思うんだ」
 整った横顔に、ふと哀しさが通り過ぎた。諦めと、小さな未練と、未だ燻る逡巡と。汀はそれら全てを悲しみという曖昧な箱にしまい込んで、はっきりさせないつもりらしかった。
「だから……自分が後悔しないために必死に生きるより、大切な誰かをなるべく後悔させないための生き方をしたいなって、最近は考えてる。後悔のタネはなるべく減らしたい」
 テレビは灯篭流しの生中継を映し出していた。歪にれた花の形の灯篭が波間に消えていく。誰かの手から祈りをこめて送り出されて、水の向こうへ迎えられる。
 凪いだ海に落ちた涙。いまだどこにも帰れない人達。祈りの形に組み合わされた手と、永遠に姿を失ってしまった沢山の人の形なき存在。実在と非実在が手を取り合って、記憶を作る。
「昨日は追い返したりしてごめん」
 やっと目を合わせてくれた。そう思ってすぐ、気まずくて合わせられなかったのかと気がついた。
「それが汀の後悔のタネ?」
「そう。だから育つ前に引き抜いておきたいなって」
 バオバブの木みたいに、大きくなって星を壊す前に。汀はそう言うとテレビを消した。とりどりの千羽鶴は残像となって頭に移動し、目の前には昼の光で埃色に見える画面が残された。
 この画面の向こうに、今日も明日も祈りを重ねる人がいる。小さな後悔のタネから育った巨木とともに生きていくことを選んだ人がいる。選ばざるを得なかった人がいる。
 俺の後悔のタネはなんだろうか。俺は汀みたいに賢くないから、芽が出るどころか枝葉を伸ばし実をつけるくらいまでにならないと気がつかないかもしれない。今のうちにできることなんて、何もないのかもしれない。

 帰りがけに駐輪場でふと思い出して、スマホでバオバブの木について検索してみた。汀の言った、星を壊すバオバブの喩え話の意味がわからなかったからだ。
「へえ、星の王子さまだったのか」
 星の王子さまといえば、象を丸呑みにしたウワバミの話だとばかり思っていた。初めて自分から読んでみたいと思った。……ああ、こういうときのために図書館があるのか。
 その足で図書館に寄ってみた。検索端末に「星の王子さま」と打ち込んだら結果が何ページも表示されて驚いたが、なんとか正しいもの? を借りられた――同じタイトルの本がいくつもある理由はわからずじまいだったが。
 作ったばかりの利用者カードが早速役に立った。家に帰ったら、夕飯までの間に読んでみようと思った。最後まで読めたら、面白いと思えたら汀に報告しよう。
 表紙に佇む王子さまの姿は、どことなく汀に似ている気がした。