スプリング・エフェメラル - 1/4

 令和二年の春休みは突然にやってきた。
 春休みといえばインターハイの予選に向けて調子を整えていく時期だが、登校を禁止されてしまったので部活動自体がなくなってしまった。中学からずっと陸上部、種目は長距離。体を動かすのは好きだし大会でいい成績を残せれば勿論嬉しくはあったが、スポーツ推薦を狙うわけではないので、自主練習するほどの情熱はない。部活がなくなったからといって毎日ランニングに精を出すなんてことも勿論なかった。
 とはいえ次の大会まで引退するつもりもさらさらないので、春期講習に行く予定だってない。学校がいつから再開されるのかわからないけれどとりあえず勉強しよう! なんて思えるほど真面目ではない。もしそうなら今頃はもっと偏差値の高い高校で清く正しい受験生をしていたはずだ。結果として、中途半端なもやもやばかりが募った。
 では気が済むまで遊びまくるか? ということになるのだが、そうもいかないのがこの降って湧いた春休みの一番厄介なところだった。いつもつるんでいる友人は揃ってカラオケにもゲームセンターにも行けないと嘆いている。スマホが今日何度目かわからない鳴き声をあげ、見れば未読のメッセージが二桁になっていた。みな暇を持て余している。
 学校がなくなればやることもなくなる。何もすることのない時間がにわか雨のように降り注いだのだった。しかもこの雨はしばらく止みそうにない。小雨だからいいやとそのまま歩いていたらいつの間にかずぶ濡れになっていた、そんなやるせなさが全身をじっとりと覆い始めていた。
 高校二年生、十七歳の他愛ない日常は突然に、ドライヤーと電子レンジとエアコンを一度に使った瞬間バチンと音が跳ねて真っ暗になるみたいに呆気なく、余韻も感慨も残さず終わってしまったのだった。

 本当なら今日は期末テストが返ってくるはずだった。一夜で薄味に漬けこんだ物理はどうなっただろう。赤点にはかからないだろうが、平均点は割っているに違いない。数学はたぶん大丈夫、現国は雰囲気でなんとなく解けたが、古文はどうせ駄目……。
 テストが返却されて、午前授業になって、寒い体育館で卒業式の練習をさせられて。全部、全部なくなった。追試があるのかさえわからずじまいだし、弁当持参で部活に明け暮れることもないし、卒業式は三年生だけでひっそりと行われることになった。
 いよいよオリンピックイヤーだなんて盛り上がっていたのが遠い昔のことのように思える。たった数ヶ月の間に、変わらなかったものがないくらいに全てがひっくり返ってしまった。
 実感がわく暇もない。高速回転する扇風機の羽をぼんやりと眺めている気分だった。指を差し出せば簡単に切り刻まれてしまうというのに、とてもそんな力を持つようには見えない。しかし現に世界はあっという間に細切れにされてしまったのだ。欠片を拾い集めてつなぎ合わせても、きっと元の形には戻せない。
 何もすることがない。先のことを考えるのさえ面倒臭い。
 からっぽのまま布団の上に転がると、太陽のにおいがした。午前中のうちに母が干しておいてくれたからだ。こんな日々が訪れるまでは、晴れた日には毎日干してくれていたなんて知りもしなかった。太陽のにおいを当たり前に享受しているという意識すらなかった。生活がひとつ、またひとつとくしゃくしゃに丸められ不必要の張り紙を貼られていく中で、こういう小さな当たり前に救われながらなんとか息をしている。

――そうだ、あいつのところへ行こう。
 それは悪くない思いつきだった。布団に転がったら頭も回ったらしい。
 勢いがしぼまないうちに、外行きにはくたびれすぎたシャツの上にまともなパーカーを羽織り、ベッドの隅に丸まっていた二日目のジーンズに足を通して、部活用のジャージを引っ掛けて玄関を出た。
 錆びが回ってギシギシ鳴る空気入れと格闘しながら自転車のタイヤを膨らませ、軽くなったペダルをひたすら漕ぐこと二十分。いかにも美味しくなさそうなチョコレート色の壁に囲まれた病院が見えてきた。幅の広い歩道へ自転車に乗ったまま進み、塀に沿ってしばらく進むと、褪せた色の看板と駐輪場への入り口が現れる。
 あいつ――宮坂みやさかなぎさはひと月前からここに入院している。より正確に言うならば、別の病院からひと月前に転院してきていた。

 駐輪場からメッセージを送る。

《ひさしぶり。今から行ってもいい?》

 行ってもいいも何も、もう病院の下まで来てしまっている。駄目だと返されたらどうしようか、そもそも家を出る前に連絡しておくべきだったんじゃないのか――今更なことに頭を悩ませる間もなく、手の中のスマホが素っ気なく震えた。

《いいよ》

 いつも通りの春休みを恙無く迎えていたとしたら、はたして会いに行っただろうか。
 沢山の人が亡くなった年、オリンピックが無くなった年、世界中が未曾有の混乱に包まれた年――二○二○、令和二年という年を思い返すとき、多くの人がマイナスのイメージを、漠然とした不安を、悲しみや忍耐の記憶を掘り起こす。古くなったカサブタから新しい血が流れ出すこともある。
 しかし、俺の持つものは少し違っている。
 自転車のタイヤが乾いた地面を踏みしめる埃っぽいにおいと、アスファルトの隙間から芽吹いた小さな緑。病室の窓から遠く見下ろしていた桜の花片が、上昇気流に乗って一気に目線の近くまでやってくる瞬間。晴れた空に飛んでいくシャボン玉が、淡いピンクと青色をいったりきたりしていたこと。ハッピーバースデーと吹き消されたロウソクが、一本だけ取り残されて揺れたときの寂しさ。いつだって晴れ渡っていた、あいつの柔らかな横顔。何も知らない、責任もない高校生だからこそ持ち得た、蜃気楼のように重さの欠けた都合のいいことばかりの穏やかな記憶たち。
 もしも春がこんなに早くやってこなかったなら。俺はもう一度だって、汀に会えなかっただろう。会いに行かなかっただろう。生きることの意味なんて考えもせず、なんとなく流されるままに歳をとって、大人と呼ばれる何かになっていったのだろう。
 地球上の全てが浮足立って重力を無くしていたあの年月にだって、きっと何かの意味はあったのだ。そう考えなければ遣りきれなかっただけかもしれない。そうであったとしても、そこに意味を見出したいと思う。些細でも良いことに繋がる何かがあったと信じたい。

 少しだけ長い高校二年生と三年生の狭間にあった、淡く儚い春を思う。
 あの日々が与えてくれたものの意味を、いつかはっきりと知るときが訪れたなら。俺は真っ先に、あいつに話してやろうと思っている。
 あいつは笑ってくれるだろうか?


2020 0303

「バナナ持ってきたけど、食う?」
 昨日は手ぶらでやってきてしまったが、入院している友人を見舞うならばやはり、外の空気を持ち込むのが面会者の務めではなかろうか。……などと堅苦しく考えるでもなく、ただなんとなく何もないのも寂しいように思えて、コンビニで安売りしていたのを買ってきただけだ。
「ありがとう。果物はなんでも嬉しい」
 ビニール袋から透ける黄色を見て、汀は満足げな顔をした。手に持っていた文庫本をサイドテーブルに戻すと、ここに置いて、と掛け布団の膝のあたりを指差す。
 薄いカーテンの向こうから差し込む光が、汀の淡い黒髪に柔らかく照っている。俺のとは似ても似つかない、うっかりすると女子よりも繊細なんじゃないかと思えるくらいにサラサラの髪は、学校で毎日会っていた頃よりも透き通って見えた。
 教室にいると目立たないのだが、こうしてひとりきりの姿を見るとはっきりと感じる。汀は、みんなとはどこかが違う。何かが欠けているのか、はたまた持ちすぎて溢れているのか――その正体や理由を突き止めるまでには至らないが、とにかく『どこかが決定的に違う』そう直感的に感じるのだ。
 今日はやや風が強いのだが、この部屋には穏やかなものしか入れないようになっているらしい。穏やかな光、穏やかな室温、穏やかな声と表情。『太陽の恵み!』とでかく印字されたバナナのパッケージでさえも、この部屋の中ではなんとなく大人しくしている。異質なのは、突然に春休みが始まらなければ今頃はグラウンドをひたすら走っていたはずの俺だけだった。
「バナナの他に、もうひとつ入ってる」
 開けてみ? ずっしりとした袋を膝に置いてやると、汀は細い指を器用に動かして、自転車の揺れにも負けなかった袋の結び目を容易く解いた。
「そっか、今日は雛祭りか」
「ネタに走ってから今更言うのもアレだけど。ひなあられとか桜餅とか、無難な方がよかった?」
 特設コーナーの中でも一際異彩を放っていたミニ菱餅を思わず手に取ってしまったのは、暇を持て余した男子高校生の悪い習性ゆえだ。
「ううん、嬉しい。菱餅食べたことないから」
「餅っていうか、それグミでできた偽物だけどな。大したことない味だと思うけど、気分だけ」
「気分だけじゃなくて、気持ちも一緒に貰っておくね」
 よかったら一緒に食べない? これ、使って。汀はベッドの側にひっそりと置かれていた丸椅子を片手で引っ張り出した。しばらく使われていないのか、座面には薄く埃が積もっている。
「じゃあ遠慮なく、バナナ一本貰うわ。まだ昼食ってねえんだよな。チャリ漕いできたら腹へった」
「実は僕もまだなんだよね。お昼の時間は寝ちゃってて、食べそびれた」
 僕はここから動いてないからそんなにへってないけど。汀は気まずさを紛らわすように目を逸らすと、水はポットから自由に使ってね、とサイドテーブルを指差した。全てのものがベッドから手を伸ばせば届くところにあって、便利でいいなと少し思う。
「看護師さんに言って何か出してもらえば?」
「今日はもういいや。一也かずやとこれ食べる方が楽しい」
 今食べるなら夕食は減らしてもらおうかな、ああでもお昼すっぽかしておきながら勝手に間食して、挙句に夜は減らしてくれなんて言ったら怒られるかな。菱餅のパッケージをくるくると回しながら、汀は楽しそうに呟いた。
「菱餅って、どこから食べればいいの?」
「は? ……その、とんがった方の角からじゃねえの。まあ俺だったらまず上のピンクの層をひっぺがして食うけど」
 汀はころころと笑った――じゃあ、僕もひっぺがして食べる。一也にはピンクのところあげるから、僕は白と緑ね。
「そういやさ、食事制限とかはないんだよな?」
 ふと不安になって尋ねてみた。これからも何かと持ってくるかもしれないし、知らずに食べられないものを渡してしまうのは避けたい。
「平気。もうなんでも食べていいんだ」
 入院してる間に胃が小さくなっちゃったから、あんまり入らないけどね。なんでもないことのように言うと、汀は菱餅の一番上のピンク色を綺麗にはがした。断面についたザラメが粒々と零れて、白い布団の上に転がる。
「ピンク色、何味?」
「んー……砂糖味。強いて言うなら、桃風味の砂糖味」
 本物の菱餅はどんな味がするのか、俺も汀も知らない。見た目だけを真似たおもちゃの世界しか知らないままで生きている。
「白はね、……砂糖味? なんだろう、これ」
「全部同じじゃん」
 穏やかな光を映す瞳が、一瞬悲しげに揺れたように見えたのは気のせいだっただろうか。
「緑も砂糖味?」
「うん、砂糖味。でも美味しいからいいや」
 布団に落ちたはずのザラメはいつの間にか見えなくなっていた。