序 青にひたして - 1/2

 一等空の高い日だった。霧もなく、重く垂れ込める灰色の雲もなく、早咲きの花を散らす風もなく。ただ、永遠を内包した青がどこまでも深く続いていた。
 そっと指を浸すと、輪郭は呆気なく溶け去った。爪の先、淡くなった境界から光が染み入って、空に抱かれる錯覚に溺れる。ささやかな旅立ちの朝には充分すぎるほどの祝福だった。
 周囲を深い緑に囲まれた山村の小さな駅はひっそりと、しかし確かな道をその両の手に広げて、訪れる人々を待っている。黒く煤けて滑らかになった木造りの外壁に、今日までここを通り過ぎていった数多の人の時間が溶け込んでいた。喜びも涙も、出会いも別れも全て音もなく受け入れて、ただ時が流れていくのを見つめ続けていた。
 春陽が駅舎の屋根瓦に反射して、視界に白い光の粒を散らす。厳冬の重雪に繰り返し洗われてきた瓦はすっかり褪せた赤に変わっていたが、遠景の山々の合間に穏やかな目覚めのような色彩を添えていた。
 木漏れ日は眩しいくらいだが、木々の間を抜けてくる風はまだ冬を覚えているらしい。ふるりと背を撫でた寒さに、今朝初めて袖を通したばかりの詰襟の裾を少し引っ張ると、着慣れない布の硬さが首筋を掠った。慣れないだけでなく、背丈に合わぬ大きさのせいで、少し身動きしただけで余った布が存在を主張し始めるのだ。すぐに背が伸びるのだからと大きいものを買い与えられたのだが、果たしてその期待に応えられるのだろうか。
 前を歩く母が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。いよいよ別れの時が来たのだ。
 母の瞳に青が映っていた。どこまでも高い空から切りとられた青は少し濡れていた。母が声を殺して泣いていたことにようやく気がついた。
 母は黙って両手を控え目に広げた。昨年の夏の終わりに背丈を追い抜いた小柄な体に呼ばれるままに、私は素直にそこに収まった。
 微かに若草を薫らせる石鹸の残り香と、小さな商家に染み付いた少し埃っぽい生活の気配。物心ついたときからずっと当たり前に存在していた母のにおいだった。確かな庇護と、純粋な愛情のにおい。それに包まれて十五の歳まで生きられたことが、どれだけ幸福で恵まれたことであったか。
 身体には気をつけて――耳朶に触れた言葉の重さを知っている。形ばかりの別れの台詞ではないことを、母も私も十分に理解していた。
 せめて安心させられるくらいには丈夫になりたかったものだが、結局親離れをする今日までそれは叶わなかった――きっと生涯叶わないのだろう。それでもこうして送り出してくれることに、感謝しかなかった。
 ありがとう。一言だけ、千々になった頭からなんとか引っ張り出して声にした。こんな風に抱きしめるのも抱きしめられるのも、最後かもしれない。そう思った途端に、用意していたはずの別れの言葉はどこかに溶けてしまっていた。
「しっかりやっていらっしゃい。決めたからには、納得のいくまで」
 母の瞳はもう濡れていなかった。いつだって晴れ晴れと笑える、不安を抱える心に寄り添える、母のような強い人になりたいと思った。
 多くを語っても、きっとどれもが嘘くさくなってしまう。感謝の証明は行動で示したかった。

 滲む青を灯した瞳がもうひとつ、少し離れて立ち尽くしていた。
直次なおつぐ
 私より三つ年下の弟は、その年齢に合わぬ落ち着きと思慮深さを持っていた。
 母と私の抱擁を、彼は黙って見ていた。今この瞬間を永遠に記録しておくかのように、両の目をしっかりと開いて、小さな両足を踏みしめて、真っ直ぐに見つめていた。
「直次、こっちにおいで」
 母に倣って両手を広げたところで、弟は素直に歩み寄ってはくれないだろう。彼の頭の中には、周囲の人間が想像するよりもずっと多くの感情が渦巻いていて、しばしばその奔流が柔らかな心や年相応の行動を阻害してしまうのだ。
 小さな足が動けなかった数歩を補って、私は弟の手を取った。春風にやや冷えた手のひらをそっと握ると、弟は薄い唇をきゅっと引き結んだ。
「向こうに着いたらすぐ、手紙を書くから」
 幼さの奥に秘められた賢しさが、私をじっと見つめていた。弟は何かを深く考え込んでいるようだった。口を開きかけてやめて、俯きがちに視線を外す。彼の時が満ちるまで、私は待っていた。
「……兄さんがここを出ていくのは、僕のためではないですよね?」
 時間をかけて吐き出された言葉は、母には聞こえないように小さく、そばだてた耳にようやく届く囁きとなって、私の前に零れ落ちた。
「僕が家を継ぐことを気兼ねしないように、周りからあれこれと言われないように、ではないよね……?」
 答えの代わりに、私は弟の背中に両腕を回した。あまりに切実で痛々しい感情の全てを、抱きしめた熱で溶かしてやりたかった。
 腕の内側に触れた肩甲骨は、年相応に細く小さかった。すぐに私の背を抜き、逞しく成長するであろう体は、今はまだ幼く脆い。――無論、そこに収まっている柔らかな心も。それが当たり前なのだ。
「兄さんの居場所を、僕が奪ってしまったわけじゃ、ないよね」
 生まれつき身体の弱い商家の長男が、継ぐべき家を残してひとり東京の学校に進学するということ。それは私が思う以上に、周囲にあらゆる臆測を蒔いたのだろう。
――実業を継ぐだけが家を継ぐということではない、代わりに勉学の才を活かして家を支えるのだからいいじゃないか
――身体を壊してまで無理に働くことはない、直次くんだって充分優秀じゃないか。兄弟がいるというのは本当にいいものだね
――決断は早い方がいい。その方が後を任される方も腹を決められるってもんだ
 激励の言葉に悪意はない。それでも、棘を生み心を刺すことがあるのだ。
「直次。僕は、僕のやりたいことを見つけるために行くんだ」
「遠いところに、行くの」
「そう。いつか話したこと、覚えていてくれたんだね。こんな身体に生まれた僕でも……いや、だからこそ、かな。僕だけにできることを見つけに行くんだ。誰のためでもなく、僕自身のために」
 すんなりと納得させられるような立派な理由もなければ、周囲が勝手に想像する、美しく悲壮な決意もない。あるのは独りよがりで身勝手な衝動ただひとつだった。
「……僕が父さんの後を継いでもいいの?」
「それは誰に許可を請うことでもないよ。直次は、直次の道を進めばいいんだ。今はまだ見えないかもしれないね。でも、いつかきっとわかる日がくると思う」
 賢い弟はきっと、進むべき道を自ら見つけて歩んでいけるだろう。そのときにせめて邪魔をしない存在でありたかった。
 本音を許されるならば、精一杯支えてやりたいと思う。長兄たる責務を果たし、弟が自由に生きる道を示してやれたなら、どんなにいいか。
「これだと思ったときには迷わないで、信じて進めばいい。真っ直ぐに行き先を指し示す道標は、最後は自分の心の中から探すしかないんだ」
 私にできるのは、清明な魂に拙い言葉と励ましで寄り添うことだけだった。あと一歩踏み出す勇気を支えてやることだけだった。
 弟はこくりとひとつ頷いた。癖のない柔らかな髪を撫でてやると、ようやく不器用な笑顔を見せた。
「手紙、楽しみにしています。東京の景色を、いつか僕にも教えてください」
 願わくば、彼の辿る道が優しいものでありますように。たとえ平坦でなかったとしても、暖かな陽光の絶えない道でありますように。

 到着を告げる汽笛が近づいてくる。やがて深い緑をかき分けて、列車が駅に滑り込んできた。
 車体の下から響いてくる、唸るような低い振動が徐々に消えていき、乗降口が開いた。白い蒸気がうっすらと広がる歩廊に靴音が降りる。昼前の列車は空いていて、車掌の交代を待つ間に乗り降りの波はすっかり引いてしまった。
「それでは、行ってまいります」
 一歩踏み出せば、もう迷いはなかった。再会を心の底から信じられるような身体に生まれつかなかったからか、さっぱりと別れるのは得意だった。涙に涙を重ねる別れはどうにも好きになれなかった。
 母の唇が、私の名前の形に動くのを目の端で捉えた。敢えて呼びかけなかったのか、声にならなかったのか。それは誰にもわからないことだった。
 これが最後なら、もう一度。もう一度だけ抱きしめてほしい。
 振り返ったときにはもう、乗降口はぴったりと閉ざされていた。母のどこか寂しげな眼差しが、歪んだ窓硝子越しに滲んでいた。
 いってきます、お母さん。届かない言葉を舌先で転がして、今度こそきっぱりと背を向けた。