終 三月三拾日 - 1/3

さようなら。
またいつか人生の楓の頃に、どこかで。


 空高き春の日、早咲きの桜がちらほら空を舞い始める頃に、青南師範学校の卒業式は行われた。

「――時として世間では小学校教師に対し、『先生ともあろうものが』と痛烈な批判の目を向ける。それでいて日頃何もないときには、教師らしく尊敬などせずに、『たかが小学校教員のくせに』と言っては軽蔑する。これは我が国の教育における著しき問題であろうと、私は思う。小学校教師に権威を持たせないと、国民は信念を得る機会を失い、やがて国家は滅亡する。幼心にうちこんだ至誠は消えるものではない。児童の魂の成長が、我々の未来を作るのだと、私はこの師範学校で過ごした年月で学び得たのである――」
 この年の卒業生総代を務めた播本の演説は大いなる波乱を巻き起こした。当たり障りのない演説で締めくくられるばかりだった卒業式に、今後の教育界の行く先などという壮大な論説を打ち上げたのだから当然だった。

 二年を過ごした部屋の片付けも混乱を極めた。あれがない、これが入らないと大騒ぎをしつつもなんとか各自荷造りを終えて、今はもうここに始めて来た日と変わりないがらんどうの景色が広がっている。一週間後にはまた新しい一年生が慌ただしく荷物を運び入れるのだろう。
「どんな一年達がここを使うんやろな」
 珍しくしんみりと桝谷が呟いた。
「きっと、かけがえのない仲間になるよ」
 僕達みたいに。言ってから急に恥ずかしくなって、本江はごめん最後の一言は撤回でと笑った。
「僕は高師へ進学することになった。無論主席入学だ」
 誰が言い始めるでもなく今後の進路の報告会が始まった。先陣を切ったのは卒業式で波乱を巻き起こしたばかりの播本で、相変わらず淡々としている。
「おめっとさん」
 その態度に、相変わらず一言余計で嫌味やなァと桝谷は目を細めた。
「いつか、教師という仕事を、人種を馬鹿にしたことがある。その気持ちは今も然程変わりはない。今の教育制度の未熟さや、教師という職業に対する世間からの甘えが生み出す問題が山積みだというのに、それを変えようともしないのは馬鹿らしいと思う。だから僕は教師にはならない。代わりに、教育をとりまく世界を変える人間になろうと思う」
 だからあんたらは安心して教師になればいいさ。播本はにやりと笑った。
「俺は東京で教師になるよ。やっぱり家に帰りたくないしな。でもな、それだけやないねん。……教職の傍ら、文検受けよ思てる」
 どこか誇らしげに桝谷は言った。
「そんで、いつか中学教師になる。播本が高師に行くんなら、俺は師範学校卒でも中学教師になれるんやって、目にもの見せたる。でな、もっと自由な教室を作るんや。『親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている』ってな! そんな教師や」
 破天荒で人情に厚い桝谷に、それはきっと似合うだろう。彼が教鞭を執る姿を、いつか間近で見てみたいと本江は思った。
「おれは故郷の北海道で先生になるよ。東京のこともいっぱい教えられる先生になる」
 東京で暮らしたことのあるやつ、故郷でおれだけだからな! 野宮は笑顔で胸を張った。天真爛漫で尽きぬ好奇心の塊のような彼もまた、子ども達に好かれるいい教師になるだろう。
「そうだ、桜楓帖は返さへんとな」
 桝谷は所在なく置かれていた桜楓帖を野宮に渡した。皆の荷造りがすっかり終わっても、二年間の記憶と思い出と青さの詰まったそれに触れるのはなんとなく憚られて、定位置である窓辺にぽつんと残されていたのだ。
「ありがと」
 野宮は桜楓帖の表紙を愛おしげに撫でた。二年前は真っ白だった小さな帳面は、積み重ねたインクの重みと窓辺で吸い込んだ太陽の光で、すっかりくたびれて柔らかくなっていた。
「これがなくても、もう充分なくらいに貰ったけどさ。……いつか、これを基に本出すよ。そンで皆のことを書くよ」
「印税で奢れよ!」
 まさか忘れてないやろな、と桝谷が詰め寄る。
「もっちろん!」
 青春の日々が恋しくなったら、いつでも送るから手紙寄越してよね。野宮はそう言うと、桜楓帖を油紙で丁寧に包んでから、そっと荷物の奥へと滑り込ませた。

「僕はつい昨日学校が決まったところなんだ」
 言い出す機会を逃さないうちにと、本江は急いで口を開いた。
「あれ、もっと早いうちに決まったと言ってませんでしたっけ?」
「急遽変わったんだ。東京の随分と端っこの方になった。東京とは思えない田舎っぷりだよ」
 そこ本当に大丈夫なんですか、と原島が心配そうな目を向ける。
「すごく小さな村で、子どもがたった四人しかいないんだ。募集しても全然教師が来なかったらしくて、話だけでも聞きにきてくれないかと声をかけられたんだ。それでいざ行ってみたら、そこの校長と故郷の話で盛り上がってさ。ここならできるかも、って思えたんだ」
 それは運命的とも思える出会いだった。都会で教師になるとばかり思っていた自分に、まさかこんな話が舞い込んでくるとは思ってもいなかった。
「ええやん。本江クンに向いてそうやな」
 いつか遊びに行かせてや。桝谷の笑顔に、待ってるよ、と本江は笑い返した。
「なあ、啓はどうすんだ?」
 野宮の問いかけに、平野はふわりと表情を崩す。
「僕も東京で教職に就きます。正直、体調面の不安はまだ拭いきれませんが……名雪先生が推薦してくださって、ここからそう遠くないところの小学校に決まりました」
 卒業が間近に迫ってもなお、連日教員室に出向いて何やら相談に乗ってもらっていたらしい平野のことが、本江は内心何よりも気がかりだった。希望が叶うかはさておき、とりあえず卒業して働き口が見つかりさえすればどうにでもなる自分とは違って、平野には何かと制約がつきまとう。できれば無理をしないですむ働き方をしてほしいと思っていた。
「名雪先生、本当に平野君のことを気に入っていましたよね」
 原島がしみじみと頷く。
「ちょっと似た者同士っていうかさ」
「ええ、似てへんよ! 平野はあないに軽くも怖くもないやろ」
 そうかもね、と返しながら、本江はやはり平野と名雪先生は似ていると思った。どこがと具体的に訊かれても困る。なんとなく、根っこのところが似ているのだ。
「僕も東京で教師になります。あと、結婚します」
 眼鏡を押し上げ、最後にさらりと原島は言った。
「まてまてまて! 教師になることよりも! 今なんて言うた?」
「結婚します」
「ホンマか! おめっとさん!」
 突然の結婚報告に、ハズレ角は今日一番の盛り上がりに包まれた。
「清子が待っていてくれたから。いい家庭を築きます」
 原島ははにかんで笑う。
「清子ちゃんの家庭料理食いたいわー」
 きっととびっきり美味いんやろな。桝谷が夢見る口調で呟くと、
「きみだけは家に上げたくないです」
 即座にぴしゃりと言い返す原島。このコンビも今日で解散かと思うと寂しくなる。
「なんでやねん!」
「嘘です。……みなさんも、いつでもどうぞ。二人で待ってます」
 彼は二年の間に随分と感情をはっきり出すようになった。いい顔になったなと本江は思った。

「また、いつか会おう」
 夕暮れの迫る学寮の門の前で、僕らは最後にもう一度だけ立ち止まった。
 手紙書くよ、引っ越すときは住所教えてくれよ――そんな会話をしてもなお、まだこの場を去る実感が湧かないでいる。もうこの場所で六人で過ごす日々は終わってしまったのだと、まだ信じられないでいる。
「『思えば いと疾し この年月』ってな。俺は別れとかいざさらばとか、そういうのは好かん。……だから、また会おう。いつか、人生の楓の頃に」
 誰もいなくなった部屋に、早咲きの桜がひとひら舞い込んだ。くるくると風に煽られて、青春の日々の刻まれた机にそっと舞い落ちた。
 六人が揃うのは、後にも先にもこれが最後だった。しかしそんなことは今は知る由もないことである。
 彼らの前には、永遠の春の空だけが広がっている。