小雪の舞う中を、本江は大きな鞄を下げて歩いていく。向かうのは、川向こうの市民病院だった。
あれからすぐに入院となった平野は、一週間は面会謝絶となった。三日は意識が戻らず、これ以上悪化するようならば実家に電報を打つとまで言われたようだが、なんとか持ち直したらしい。謝絶状態が解けてから、本江は毎日ノートと着替えを持って病院へ通っていた。
「毎日、すみません。……ありがとう」
「気にしないで。啓の顔が見たくて、僕が勝手にやっていることだから。……あ、迷惑だったらすぐ言ってよね。僕の顔なんて毎日見ていたら見飽きるでしょう」
さらさらとカーテンを揺らす風の穏やかな二階の角部屋が、平野の入院する病室だった。どこもかしこも白一色に支配された無機質な病院は、清潔でありながらもどこか息苦しかった。
「やっぱり、だめかな」
にわか雨のように滴った声に、本江の意識は引き戻された。
「昔からそうでした。……諦めたことの方が多かった。この身体では、仕方のないことなんです」
掠れた声には生気がなかった。白く折れそうな腕に点滴の針が固定され、そこから透明なチューブが伸びている。口から摂取しきれない栄養を補完するための薬だと聞かされていた。しかし本江にはそれが、彼の元より白い腕からさらに色を削り取っていくための何かのように見えた。
「ねぇ、啓。悪いんだけど、ひとつ教えてくれないかな。どうしてもわからなくてさ」
本江にできるのはただひとつ、視界を埋め尽くす白に気力までも奪われかけた友を、どうにかしてこちら側に引き戻すことだけだった。彼の抱えるものは、自分にはとても重すぎて共に抱えることなどできはしなかった。だからせめて、気を紛らわすくらいはできたらいいと思った。
本江は持ってきたノートを広げると、一部分を指差した。平野はゆっくりと背を起こすと、寝台に据えられた机に片手をついて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「……この二辺の間に、補助線を引くんです。そうすると、この線が図形の中心から引かれた垂線になる」
点滴に繋がれたままの手が伸ばされて、ノートの上を行き来する。細い指先が手書きの拙い図形をなぞって、着実に正答を導いていった。
「やっぱり、上手いな。桝谷に聞いても、『こっからばーッと線が伸びて、こっちと繋がって…理由? そんなん知らん、そうなっとるんや』って……」
「ふふ……桝谷君らしい教え方ですね」
はやく、戻りたい。平野はぽつりと呟いた。夕暮れの強い光のなかに溶けてしまいそうな声を、本江は確かに聞いていた。それは紛れもない友の本心であった。
「平野、教師になれ」
突然の言葉に、平野はさっと顔を上げた。
「誰が何と言おうと、たとえお前には無理だと嘲笑われても……自身の心がそう叫ぼうとも、全部笑い飛ばしてやれ。心無い言葉に、思い込みの生んだ呪いに、負けるな」
僕も、精一杯やるからさ。本江は笑って続ける。
「啓はきっと、いい教師になると思う。どこで教えるとか、どうやってとか、そういうの関係なしに、きっと誰かにとってのいい教師になる。いつか、孤独に彷徨う誰かの人生を変える。そんな気がするんだ」
だから、教師になれ。本江はもう一度力強く言うと、細い友の手をしっかりと握った。握るだけで折れそうな指先はしっとりと冷たかった。生きるための熱を分け与えるように、本江はその手をそっと擦った。
病室を照らす夕日はゆっくりと沈んでいった。窓辺に置いた花のにおいが強くなった。
平野は声も出さずに泣いていた。ぽたり、ぽたりと白いシーツに通り雨が模様を描いた。
骨の形がなぞれる背に、本江はそっと手を伸ばした。抱きしめて泣かせてやるのは、きっと自分の役目ではない。自分にできるのは、共に前に進み、見果てぬ夢を追うことだ。寄りかかれる存在になるのではなく、同じ地面を踏んで歩く友になることだ。
「学校で、待ってるから」
とん、とひとつ背を叩く。頼りない自分の手でも、友の後押しになれると信じて。
