九 拾月拾四日 - 3/3

「で、大手を振って出てきたはいいけれど。どこか心当たりはある?」
 秋風舞う通りに立ち尽くし、五人はあてもなく辺りを見回した。
「なんもわかんねえ!」
 お手上げ! とばかりに野宮は肩を竦める。
「結局、無計画かよ」
 馬鹿馬鹿しい、と播本は鼻で笑った。しかしそんな播本も、事実こうして授業を抜け出してきているのだから、他人事のように笑う資格はない。
「原島君の行きそうなところ、ねえ……」
 本江は悩んだ。一年と半年、同じ部屋で寝起きして共に授業を受けていても、いざこうしてみると知らないことばかりである事実に今更ながら驚く。知ったようなつもりになっていたが、探すための手がかりひとつ思いつかないのだ。
「原島君がちょくちょくひとりで出かける理由、誰か知ってる?」
「いんや、知らん」
 さっぱりわからん、と桝谷は首を横にふった。
「野宮とちごて、ガード固いからなァ」
「おれはわかりやすいっていうのか?」
 心外だ、とばかりに食ってかかる野宮に、桝谷は軽く目配せしてみせる。
「おサキちゃん、元気か?」
「そ、れはっ……!」
 一瞬で頬を染めしどろもどろに狼狽えた野宮を見て、桝谷はケタケタと笑った。
「ほらな、わかりやすい。原島もこうならよかったんになァ」
「うう、単純な自分がなっさけねぇ……」
 でも、それが野宮のええところでもあるんやで? 慰めているのかさらに馬鹿にしているのか、よくわからない調子で桝谷は野宮の背をぽんぽんと叩く。

「啓、さっきは本当に助かったよ。ありがとう」
 賑やかな二人に紛れて、本江はそっと平野に耳打ちした。
「僕は何も。名雪先生の寛大な御心のおかげです」
「いや、啓じゃなければああはできなかったよ。……少なくとも僕は、あの無言の圧力を前にして、目を逸らさないでいられなかったと思う」
 臆することのない凜とした態度というものは、一体どうしたら身につけられるのだろうか。やはり生まれ持っての気質がものを言うのだろうかと、本江は内心落ち込んでいた。
「名雪先生は、きっと初めから僕達を行かせるつもりだったと思います。僕達の間で起きたことは、できるだけ僕達自身で解決することを先生は望んでいる」
 そう思ったから、僕は行動するための許可を求めた、それだけです。平野はなんでもないことのように言った。
「啓は、やっぱりすごいよ」
 自分には持ち得ない強さを持つ友を、本江は純粋に尊敬する半分、少しだけ後ろ向きに羨んだ。やはりどうしても、自分は彼のようにはなれない。それを素直に受け止めるには、まだ時間がかかりそうだった。

「さァて、困ったら人に聞く! これ鉄則や」
 聞き込みといったら、やっぱり王道は喫茶店やな。すっかり探偵気取りの桝谷が歩を進めるのに任せて、行き当たりばったりな五人はとりあえず近くの喫茶店に向かった。
――そして、そこで早くもカウンターで項垂れている原島その人に出会った。

 一年と半年という長いようで短い時間の中で、案外僕達は言外の絆を深めていたのかもしれない。偶然にしてはできすぎた幸運だ。
「崚!」
 客の少ない店内に響き渡った野宮の大声に、原島は電流でも流されたかのように項垂れていた顔を跳ね上げてこちらを見た。長くカウンターに突っ伏していたのか、額に赤い痕が残っている。
「どうして……」
 原島は信じられないといった様子で力なく五人を見た。
「さあ、これの意味を教えてもらおか!」
 桝谷は破り取られた書き置きを原島に突きつける。
「君達、本当に暇なんですね。こんなところまで、わざわざ追いかけてきたりして」
 原島は深く溜息をついた。そこには少しの安堵も混ざっているように思えた。
 原島はやがて小さく口元を綻ばせると、心を決めたようにぱしりと己の頬を叩いて顔を上げた。
「頼む。協力してほしいことがあるんだ」
 ぐいと眼鏡を掛け直した原島の声は、いつになく真剣だった。
「こんな回りくどいことせんでも、最初からただ一言、そう言えばよかったんやで?」
 やれやれと桝谷は笑って、張り詰めた原島の肩を労うように叩いた。

「僕には、幼馴染のとある女性がいます」
 ひとまずそれぞれ飲み物を注文し、テーブルについた五人に、原島はずばりと切り出した。
「真剣にお付き合いをしています。が、付き合っていることは両者の家に内緒です」
「おおう、波乱に満ちたロマンスの予感」
 推理小説が一転、壮大な恋愛物だったか。桝谷は感慨深くひとり頷く。
「瑞生、黙って聞いて」
 野宮の真剣なつっこみに桝谷は気圧された様子ではい、と答えた。
「先週、彼女から久々の手紙が届きました。縁談が決まった、内容はそれだけでした。これを機にきっぱり別れようとか、縁談を断るとかそういうことではなく。ただ縁談があると、それだけです」
 原島の声は淡々としていた。いつか野宮の一目惚れが発覚したときとは大違いだ。
「僕は彼女に試されているのだと思いました。……その挑戦に乗ってやろう、ともね」
 そこまで語ってから、原島はようやくいつもの少し意味深な笑みを浮かべてみせた。
「原島クンの悲壮で大胆な決意はようわかった。……んで、それと突然の逃亡劇がどう結びつくん?」
「同室の君達に、迷惑をかけたくなかったから。最悪、駆け落ちもあり得ると思っていましたし」
 結局迷惑をかけてしまったことは、謝ります。原島は素直に頭を下げた。

「彼女は女学校で寮暮らしをしています。だからまずは直接、会いにいこうと思う。思うのだけれど……」
 場に重い沈黙が落ちた。
「つまり、女学校にどうやって入れてもらえばええのか、ってことやな」
 親族ならともかく、血の繋がりもない人間、それも近所の師範学校生をおいそれと招き入れてくれる女学校などこのご時世に存在しない。婚約者ならまだしも、原島は正式に付き合いすら公表していない仲なのだ。いくら真摯に訴えようとも、追い返されるのが関の山だ。最悪警察を呼ばれかねない。
「校内には入れずとも、素直に事情を説明すれば中から彼女を呼んでくれるのではないですか」
 尤もな意見を言ったのは平野だ。
「良家の娘が通う女学校では、面会はその都度記録され、それぞれの家へと逐一報告されるのだそうです。僕が不用意に学校で会うことで、彼女の立場が悪くなるような事態は避けたい」
 冷静に説明しながらも、原島の表情はどんどん浮かないものになっていった。自分で分析しておきながら、改めてその障壁の高さにうんざりしたらしい。
「つまり、面会の手続きを踏まずにバレずに入るか、学校を通さず彼女を上手く外へ誘い出すか。そういうことやね」
 ますますどこぞの小説みたいになってきたなァと桝谷は俄然やる気を見せる。
「そや、そこの女学校の生徒のフリして入ればええやん?」
 ええか、推理小説には逆転の発想が大切なんや。さも深いことを語っているかのように、桝谷は神妙に頷きながら言う。
「女装するってことか?! そりゃあすごいな!」
「結構本気やで。原島くらいの背丈なら案外いけるやろ」
 俄かに盛り上がる桝谷と野宮をよそに、原島は今日一番の溜息をついた。
「久々に会った恋人が女装して大真面目に『僕と結婚してください』なんて言い出したら、どう思う?」
「……そりゃあ、破局やな」
 一世一代の妙案だと思ったのにと、桝谷はしょんぼりと肩を落とした。
「なァ稀代の秀才播本クン、なんか意見出してやー」
 中学出の秀才なら解決策のひとつやふたつくらい簡単に思いつくやろ。雑に話をふられた播本は、心底うんざりとした表情で投げやりに答える。
「僕も平野君の意見に賛成だ。真正面から事情を話して、駄目ならきっぱり諦めることだな」
「だから、諦めるって考えはそもそもないんやって! 播本お前、ロマンスってもんをちっともわかっとらん」
 遊び心のない男はモテへんで。桝谷はニヤニヤと笑った。
「ああ、面倒臭い! ここでうじうじ迷ってても仕方ないだろ。とりあえず学校の前まででも行こうよ、たまたま日光浴しに彼女が出てくるかもしれないだろ」
 結局、三人どころか六人寄っても文殊の知恵など浮かばず、増えていくのは愚痴と空のコーヒーカップくらいのものだった。

「ひゃあ、さすが東京のお金持ちの女学校や。可愛いくて清楚な娘揃いやなあ!」
 小声で囃し立てた桝谷を、原島は目だけて諌めた。そうこうしている間にも、通いの女生徒達がこちらをちらちらと見ながら、囁くように言葉を交わして足早に通り過ぎていく。妙にそわそわとした垢抜けない師範学校生六人が不審に校門前にたむろしているなんて、悪目立ちするに決まっていた。
「君達、学校に何か用かね」
 不意に背後から低い声がして、本江は心臓が一息に縮んだような心地がした。
 目つきの鋭い背の低い老人が、六人を下からじっと睨めつけていた。ここの警備員なのか、手に持った警棒には校章が刻まれている。こういう警備員は侮ると大抵碌なことがない。ただの老人と見えて、その実武士の世の最後を見届けたかつての剣豪だったりすることもあるのだから、恐ろしい。
「師範の学生が、女学校に用があるのかね」
 いや、別に何も……うっかり目を合わせてしまったらしい播本が歯切れ悪く口ごもる。制服のまま来たのは失策だったなと本江は遅まきながら思った。
「何もないのに、来たのかね」
 万事休すか――それとも退くか、押すか。判断を求めて本江は原島に目線を投げた。
 原島は小さくかぶりをふった。もう充分。俯きがちに、遣り切れなさと諦めの綯い交ぜになった曖昧な笑みを浮かべた。
 すみません、なんでもないんです、お邪魔しました――この茶番を終わりにするための一言を告げようと原島は口を開いて、

「い、妹に会いにきたッ」
 追い詰められた播本の口から、突如とんでもない言葉が迸った。
「いもうと」
 後ろで見ていた桝谷の口からも呆然とした言葉が落ちる。
「……何年の、名前は何という」
「ご、五年の……さくら、桜だ。僕は播本和貴という。妹は、播本桜だッ」
 警備員が訝しみながらも問うた言葉に、理性の操舵を失った播本はさらに混乱を塗り重ねる。
「ばか、僕の探しているのは宮本清子せいこという女性だ」
 慌てて原島が耳打ちするが、もう遅い。
「確認してくる。ここで待ちなさい」
 首を捻りながらも警備員が去っていくと、播本はへなへなとその場に座り込んだ。
「なんてこと言ってくれたんだ」
 播本は呆然としている。自分で口走った言葉が信じられないといった様子だ。
「どうする? 逃げる?」
 播本とは反対に、野宮はわくわくと楽しそうだ。野宮は想定外の事態が巻き起これば巻き起こるほど生き生きとする。そして大抵そういうときに、彼は誰もが思いつかなかった妙案や機転を発揮して何か不思議な力でことを収めてしまったりするのだ。
「もうこのまま勢いに任せて突入してしまえばええんでないの……原島クンの想い人は播本桜さんってことにして。まあそんな人いないんやけどな!」
 大体友人の妹と秘密の恋仲って、とんだ泥沼関係やないか。ひとしきり乾いた笑いに溺れてから、桝谷は急に正気に戻ったように、これからどうする、と尋ねた。
「もういい、ありがとう。僕だけで行くから、君達は即刻帰ってくれ」
「なんてこと言うんや、見捨てていけるわけないやろ!」
 悲劇の恋愛大作から一転、任侠小説の壮絶な終幕のように原島の腰に縋る桝谷と、これ以上茶番にされては堪らないと必死でふりほどこうとする原島。校門前で繰り広げられる不信極まりない一幕に、下校途中の女生徒はますます眉を顰めて遠巻きに眺めていた。

「崚さん?」
 脚本を逸脱した茶番劇に、透き通った声が落とされた。
 臙脂の袴に、小花の散った薄桃色の着物の鮮やかな女性が校門の前に立っている。彼女は艶やかな黒髪を夕暮れの迫る空に踊らせて、崚さん、ともう一度呼ばわった。
「清子」
 呆然と原島が呟く。え、この子? と桝谷は女性と原島を交互に見比べた。
「驚いたわ。本当に、崚さん?」
 遠くから警備員が駆けてくるのが見える。学生名簿を調べ終わって、播本桜などという生徒は存在しないと知れてしまったのだろう。
「原島、早く!」
「ああ、わかってる」
 原島はもう迷わなかった。校門前に立ち尽くす彼女に手を差し伸べると、柔い手のひらをそっと取った。
「清子、時間がないんだ。――一緒に、来てくれるね」
「はい、崚さん」
 夕暮れの光に鮮やかな黒髪が反射して、どこまでも深く透明な水のように煌めいた。
 柔らかな手と手が重ねられる。彼女の返事を聞くなり、原島はその手を引いて春風のように駆け出した。

「原島君、無事に清子さんと逃げられたかな」
 すっかり日の落ちた川沿いの道を、本江と平野は連れ立って歩いていた。
「きっと大丈夫です。二人は、とても幸せそうに笑っていましたから」
 水面に揺れる家々の灯りの上を、黒い影となった鳥が低く横切っていく。どこまでも羽ばたける鳥のように、愛し合う二人も生きていけたらいいと願った。
 原島が清子さんの手を引いて駆けたのと同時に、五人もそれぞれ女学校の前から千々に逃げ出した。桝谷と野宮のコンビが囮になって警備員を引きつけてくれたおかげで、本江と平野は大して走ることもなくその場を離脱できたのだった。
「桝谷君と野宮君、播本君も……みんな、無事でしょうか」
「あの二人なら心配いらないと思うよ。逃走劇すら楽しめるだろうからさ」
 彼らは非常時ほど機転を発揮する。きっと上手いこと逃げ切って、今頃はどこかの喫茶店で祝杯を上げているだろう。
「播本は……わからないけど、無事を祈ろう。うん」
 混乱の挙句に余計なことを口走り、自業自得ともとれる貧乏くじを引かされた秀才は、しばらくは女学校の前をおいそれと歩けないだろう。なんせ、播本桜などという架空の妹を生み出してしまったのだから。
「原島君は、もう学校に帰ってこないかもしれませんね」
 秋深き宵の風を背に受けて、平野はぽつりと言葉を落とした。
「……そうだね。駆け落ちして、もう僕達とは違う世界で生きていくのかも」
 原島は要領良く生きる天才だから、たとえどれだけ茨の道であろうとも上手く生きていくだろう。愛する人を守り抜けるだけの度胸が、聡明さが彼にはある。
 無性に悲しかった。友と突然に別れたからというだけではなく、原島が要領良く生きるために切り捨てたものの中に自分が属することが悔しかった。
「……ねえ、啓」
 本江は徐々に歩みを緩めると、夕暮れの風に横髪を遊ばせる友にあと一歩近づいた。
「あの、さ。『本当に追われたくないなら、何ひとつ残さず消えることを選ぶ』って言ったでしょう……あれ、本気じゃあないよね?」
 今このときに、聞けるうちにどうしても確かめておきたかった。ある日突然何の躊躇いもなく姿を消すことができてしまいそうな友に、確かめずにはいられなかった。
「ええ。ただの例え話です」
 平野はなんてことはないといった風に答えた。濡羽色の瞳に鮮やかな夕焼けが映っていた。ぱちりとひとつ瞬きをして、宵の色をその目に吸い込んだ。
――ああ、嘘をつかれたな。本江はそれ以上何も訊き返さなかった。
 平野も原島も、心に譲れないものをひとつ、しっかりと持っている人だ。それゆえ強く、肝心なところで揺らぐことなく、そして本質的に孤独でもある。誰にも寄りかかることなく立つために、不必要なものを切り捨てられる決断力と残酷さを持ち併せている。
 本江にはそれができない。どうにかして今のままの関係性を保ったままで、大きく生き方の舵を切らない選択で生きていくことを望んでしまう。安定した生活を営むうえで大切な考え方だと言えば聞こえはいいが、何ひとつ切り捨てられない性格を、今はまだ弱さだとしか思えない。
 切り捨てられる強さを持つ人が削ぎ落としていったものを、後ろから追いかけて拾って皺を伸ばして大切にとっておくなんて、馬鹿げているのだろうか。ある人にとっては捨てたものでも、それがあまりに美しく煌めいて見えたとして、勝手に拾い集めることは迷惑だろうか。
 綺麗に嘘をつける友の、凛と立つ背を見ながら思う。いつの日にか彼に置いていかれたとして、自分はそれを黙って見送るのだろう。誰にも寄り掛かろうとしない彼がいつか誰かに心を許すとして、それは自分ではないだろう。僕は短い青春時代の思い出のひとつとなって、彼の記憶のどこかにひっそりと存在するにすぎないのだろう。

 翌日、やはり原島は帰ってくることはなく、そのまま学校を辞め――となると誰もが思ったが、待っていたのは予想外の結末であった。
「おはようございます。早くしないとおかずがなくりますよ」
 翌日、ひとり欠けた喪失感を持て余し気味に食堂へと下りたハズレ角の五人が見たのは、いつもの席でぬるい茶を片手に朝食を掻き込む原島その人であった。
「原島ァ?! いつ帰って……いやそういう問題やないやろ! なんでおるん?!」
「僕がいてはいけませんか」
 開いた口の塞がらない桝谷に淡々と切り返す原島は、まるで昨日の一幕などなかったかのように黙々と食事を続けている。
「そないなことないけど……もうわけがわからん……」
 駆け落ちするかに見えた二人はあの後大胆にも両者の家を訪れ、真正面から正式な付き合いの承諾を願ったという。原島の家はともかくとして、突然見合い話を反故にされた清子さんの家は怒り心頭で、一晩中怒鳴り声が飛び交ったらしい。
「茶番劇に付き合わせた君達には悪いことをしました。それでも……君達が最後まで共に悩んで行動してくれたおかげで、僕も清子も真っ直ぐに両家に向き合う覚悟ができたんです。ありがとう、感謝しています」
 原島は感情の薄い瞳で五人を見ると、少し照れ臭そうに笑った。
 代わり映えのない一日が、今日もまた始まろうとしている。幸せなことであるなと、本江はそっと思った。