九 拾月拾四日 - 1/3

清子チャンの愛妻弁当が食いたい。原島が羨ましい。 瑞生
おれも 朝樋
二人とも、いい加減にしてください。 原島
あのさ、個人に言いたいことは直接言おうよ。まどろっこしいじゃないか。 本江


 秋風も爽やかなある晴れた朝、本江はいつものように一番に目覚めるとカーテンを開けた。
 六人の中で起床が一番早いのは、大抵本江だった。どうやらあまり睡眠時間を必要としない質なのか、寝台に潜り込む刻限は皆と然程変わりないというのに、いつも決まって夜明け過ぎには目が覚める。
 開け放ったカーテンの向こうには長屋の瓦屋根が並び、川を挟んだ遠景にはぽつんと目立つ細長い塔のような建物がひとつ見える。雨戸を開ければ一面の山、山のそのまた向こうにも山だった故郷とは大違いだ。上京してきて早一年と半年弱、さすがに東京の景色にいちいち驚くことはなくなったが、浅草や日本橋の賑わいようにはいまだに気後れしてしまう。
「本江君、おはようございます」
 朝焼けに目を細めていると、後ろからいつもの柔らかい声が聞こえてきた。
「啓、おはよう。今日もいい秋晴れだよ」
 寝食を共にするようになって一年と半年が経っても、平野は相変わらず丁寧な態度を崩そうとはしない。それが目に見えない障壁のように感じていた時期もあったが、近頃はその距離感こそが彼なりの関係の築き方なのだと朧げながら理解するようになっていた。心地の良い身の置きどころや距離の見つけ方は人それぞれで、今の在り方が彼にとって無理がないのならそれでいい。
 とはいえ、本江自身の本音としては、もっと心を許してくれてもいいのにと思っていた。平野は聡くて器用だから、大抵のことはひとりで解決できてしまう。あまり何かに思い悩むということもないのだろう。彼が誰かに相談を持ちかけるのは、彼自身が意見を必要とするときではなく、持ちかけられた相手が対話を必要としているときだけだ。
 夏休みが終わった頃から、本江は彼のことを平野くんと呼ぶのをやめた。最初はわざとらしくならないように恐々と、けい、と呼んでみたりした。野宮が元々そう呼んでいたこともあってか、特に気にする様子はなかったので、徐々に普段から砕けて呼ぶように努めていき、現在に至る。
 平野が自然と人との間に距離を置きすぎてしまう質ならば、自分はそれを邪魔だと思われない程度に埋めていくことにした。あと一歩踏み込むことを恐れないようになりたいと思った。

 さて、このハズレ角において、朝に強いのは本江と平野の二人だけだった。残る四人は寝起きが良いとはお世辞にも言い難く、毎朝起きるまでにそれなりの格闘を要する。
「んぅ……おはよ」
 本江と平野が窓辺で話していると、朝日がちょうど真っ直ぐに差し込む窓際の寝台の布団がもぞもぞと動いて、やがてあちこち跳ね放題の黒髪が飛び出した。
「野宮君、おはようございます」
「野宮君、おはよう。今日は早かったじゃないか」
「おはよ……ふたりとも、毎日早いな……おれ、腹へっただ」
 野宮はお腹が空けば放っておいても目を覚ますから、寝起きの悪い四人の中ではまだ軽症の方だ。どうしても起きないときは食堂からおかずをひとつ失敬してきて鼻先に置いてやれば、大抵目を覚ます。
「枡谷君、起きてください。遅刻しますよ」
 朝日を燦々と浴びてもなお微動だにしない布団の山を、平野がそっと揺り動かしている。
「啓、甘いって。布団引っ剥がしてやりなよ」
 残る三人は厄介で、あの手この手を尽くしても中々起きてくれない。そのくせ諦めて放っていくと、後になってどうして起こしてくれなかったんだと責められる。起こした、いいや起こしてないの不毛なやりとりを繰り返さないためにも、やや手荒ながらもここで叩き起こしておくのが、平和な寮生活のためでもあるのだ。
「可哀想ではないですか」
「勉強ならともかく、夜更けまで趣味の読書に明け暮れてる枡谷が悪いんだ。温情はいらないよ」
 それでもなお躊躇いを見せる平野に代わって、本江は布団に手をかけると一息に剥がしてやった。
「うぅ、朝日が刺さる……」
 へそを曲げたかのように背を向けて丸まった体が眩しい朝の光に照らされる。奪われた温かさを求めて宙を彷徨う枡谷の右手を、本江はぴしゃりとはたき落とした。
「野宮君、着替えたら播本を起こしてくれないかな」
 もうすっかり目が冴えたらしい野宮に、残る厄介者を一任する。
「お安い御用!」
 任せろとばかりに野宮はにんまりと笑うと、
「起きろ! 朝だぞー!」
 いまだ夜明け前にしがみついたままの布団に思いきりダイブした。
「なぁ、今鈍い音せんかったか」
「したね。僕は野宮君だけには起こされたくない」
 任せておいて言うのもなんだが、野宮はとにかく容赦がない。
「俺この間野宮に起こされたときにできた青あざ、まだ治らへんよ」
 ほら、これ見てみィ。枡谷は浴衣の裾を捲りあげて、腿に浮いた痕を指差してため息をついた。
「播本、死んだんちゃう?」
 哀れにも下敷きにされた人影は、抵抗する素振りさえ見せない。
「野宮君、それくらいにしてやりなよ」
 ひと仕事終えたと満足げな野宮がどいて数秒後、ばさりと音を立てて布団を跳ねのけた播本は、不機嫌を絵に描いたような顔をしていた。
「播本、おはよう」
播本は返事を寄越さず、無言で浴衣を肌脱ぎにした。右の上腕が赤く擦れたようになっている。これは痣になりそうだ。
「学業優秀、狷介孤高で、早寝早起き。……かと思いきや、最後のいっこは大間違いってな。ほんまにおもろいわァ」
「……朝っぱらから五月蝿い、軽佻浮薄な関西男」
 けたけたと笑う桝谷に、播本は世界中の不機嫌を集めて固めたような目を向けた。
「あれ、原島君はまだ起きてないの」
 もうひとり、寝ぼすけがいるのをうっかり忘れていた。いつもならば枡谷や播本を起こすため大騒ぎしているうちに自然と目を覚ます原島が、まだ起きてこないでいる。見ると、一番ドアに近い寝台の布団はまだこんもりと山を作ったままだった。
「どうする? 崚も起こすか?」
 野宮はわくわくと顔を輝かせた。
「小柄な原島君にタックルはまずいな」
 いいよ、僕が起こすから。本江は原島の寝台へと向かうと、
「いいかげんに起きなよ!」
 思いきり布団を引っ剥がした。

 布団の下には、もう一枚布団があった。そのさらに下には、冬がけの毛布や予備の枕の山。
「え?」
 自分が何を見ているのか、一瞬わからなくなった。まさか、いないだなんて。
 ふと、寝台の横の小机に目がいった。

探さないでください

 帳面を勢いよく破り取った跡も荒々しい書き置きは、波乱の幕開けを告げるには充分であった。