八 六月六日 - 1/2

これだから、お人好しは嫌いだ。
思い出作り? 馬鹿らしい。
今日の選択が間違いでなかったことを十年後に証明するために綴る。


 数年前の戦争景気はどこへやら、これからはどうも不況に傾くらしく、ただ単純に職につくのも難しくなってくるという。
 大体、戦争によりもたらされる一時的な好景気に踊らされるなんてどうかしている。周囲で何が起ころうと命を失わない限りは日々を生きていかねばならないし、それには金が必要不可欠であるし、不況下で金を得るためにはこんなところでくすぶっているわけにはいかない。あんな連中と足並み揃えて仲間ごっこに興じている暇などないのだ。
 中学で慣れた気になっていたが、ここは上下関係がより厳しい。軍国的とも言える。
 疑うことなく富国強兵に供される人員を育てるための教育者を輩出するのが目的なのだから、ある意味当然であろう。ここは社会の縮図だ。時勢が傾くに合わせてふらふらと揺れ動く……馬鹿らしいことこの上ない。
 同室の五人はいかにもそんな学校の生徒らしい、穏やかで馬鹿正直な連中だった。
 何ひとつ悩みがないような能天気な顔して、のほほんと教師になりたいなどと低俗な夢を見て。その世間知らずさに吐き気がした。あんな風にだけはなりたくないと思った。早くここを出て、もっとましな人間と付き合っていかなければ、今の自分にはもう後がない。
 退屈な授業をこなした後、いつものように食堂で自学に励んでいた。寮の家族的な空気が嫌いで、なるべく部屋には戻らないことにしていた。同室の五人も自分を嫌っているようだから、彼らにとってもその方が都合がいいだろう。
 夕飯の時間が近くなり人が増えてきたので、テーブルに教科書を置いたままにして裏口から一度外に出た。初夏の夕暮れの風が生ぬるい校舎の裏手でふう、と長く息を吐く。人の動きが落ち着いた頃に戻ってさっさと食事を済ませ、また自学に戻るつもりだった。ここの授業だけでは人間腐るばかりなので、実家から兄の使っていた教科書をこっそりくすねてきていた。不用心に部屋に置いておくと寮監に目をつけられるので、食堂の古びた棚の裏にいつも滑り込ませてある。

 ふとすぐ近くで聞いたことのある声がしたように思って顔を上げた。知った人間の声などどうでもいいのだが、いやに耳について思わず出どころを探してしまったのだ。
 見れば、食糧品の搬入に使われている通用口のあたりに数人の影があった。そんなところに溜まるのは大抵良くない連中だ。
 今いるところがちょうど建物の影になっていることを確認してから、ゆっくりと声のした方に身を乗り出した。ひとかたまりになった人影を改めて目視して、なるほど見知った声が聞こえた気がしたわけだと得心した。
 三人の見知らぬ上級生と何やら話をしているのは平野だった。上級生といっても、彼らは原級留まりになった二年生だ。年齢的にひとつ上なだけで、正確には今はもう上級生ではない。本来ならば三月に卒業しているはずの彼らが原級留まりになるにはそれなりの理由があるわけで、付き合わないに越したことはない、そんな連中だった。
 しばらく眺めているうちに、どうやら平野は彼らに呼び出されてのこのこやって来たらしいと知れた。口うるさい優等生が厄介者を相手にどう立ち回るのか見ていてやろう。そんな意地の悪い思いにふと突き動かされて、播本はそのまま傍観していることにした。

「……なるほどなぁ」
 人目を忍ぶわりに声の大きい上級生達のおかげで、経緯は簡単に知れた。
 あの上級生共は、整った容姿をした平野をそういう意味でからかっているのだ。女っ気のない師範学校だ、そういうことは当然にあるのだろう。実際中学でもよくあることだった。
 恐らく平野はそういう目で見られていると自分でわかっているのだろう。あれは馬鹿ではない。ただ、あしらう術は知らないだろう。別に凄惨な場面を見たいわけでもないので、適当なところで教師を呼んできてやろうかとぼんやり考えた。
 夕飯前で人も増えてきて、食堂の窓越しにちらちらと外の様子を気にする学生もいるようだった。しかし誰もが見て見ぬふりで、実際に行動を起こそうとはしない。
 自分以外の誰かが、または当事者自身が鮮やかに解決するのを心の底から祈りつつ、目の前の問題を日々の中に黙殺する――そういう構図が教育の世界の最たるものだ。自分はそういうところに苛立っているのではなかったか。世界を変えよう、未来を創ろうと声高に叫んで先導していくように見せかけて、実のところは同業者同士の腹の探り合いに忙しい教育者という人種を憎んだのではなかったか。いや、ここで黙っている己のそのうちの一人か。
 ふいにざわりと声が上がった。食堂の中から意識を慌てて引き戻すと、上級生の一人が平野を無理に羽交い締めにしたところだった。中々言いなりにならないことに業を煮やしたのだろう。
 儚い抵抗虚しく細腕を取られて、平野は痛みに小さく声を上げる。荒事に慣れているらしい上級生は、片手で易々と握り込んだ華奢な手首を後ろに捻り上げた――これくらいでは折れはしないと知っているのだ。
 痛みに喘ぎながら、哀れな優等生は懇願するような目をして上級生共を見た。
「……あの馬鹿」
 それでは好きにしてくれと言わんばかりではないかと思った。いよいよもって見捨てておくにはやりすぎか――いやもう手遅れか。
 上級生の一人は片手に半分ほどの長さになった吸いさしの煙草を持ったまま、くつくつと下卑た笑い声を上げていた。あ、と思う間もなく、そいつは平野の顔に煙草の煙を吹きかけた。
 腕を取られたときよりも反応は早かった。平野は火のついたように激しく咳き込むと、次の瞬間気を失ったようにずるりと前に崩れ落ちた。突然に一切の抵抗を放棄したことに驚いて、上級生は思わずといった風に拘束の手を緩めた。
 自由になった両腕で胸を庇うように抱き込むと、ヒュウヒュウと異様な音をたてながら背を震わせる。首を絞められたかのような呻き声が潰れた喉から迸って、音もなく横様に倒れ伏した。
 あまりに激しい反応に上級生はたじろいだ。原級留まりになった鬱屈を晴らすための些細な下級生いじめのつもりだったのだろう。おい、どうする、お前がやりすぎたんだろと焦ったような罵り合いが聞こえ始めた。
 さすがにこれは捨て置けない。人を呼びにやる暇もない。腹を決めて建物の影から姿を現すと、責任転嫁に忙しい上級生共はぴたりと声を収めた。
「全部見ていたよ。あんたらのやったことは犯罪だ」
「……なんだ、生徒かよ」
 現れたのが教師ではないとわかって、彼らは態度に余裕を取り戻した。
「二年坊主、警察官気取りか?」
「いいや。……穏便に済ますなら黙っていてやろうって、言ってるんだよ」
 播本はにやりと笑ってみせた。上級生もその言葉は予想外だったのだろう、虚を突かれた顔をする。
「お前もこれ狙ってるのか?」
 興味を失ったとばかりに煙草を踏みしだいた一人が、試すような目つきをして播本を上から下まで眺め回す。
「まさか。……先輩方と違って、生憎か衆道の趣味はありません。僕はただ彼と同室というだけです。あんたらのおもちゃにするのは勝手ですが、あまりに目に余るので口を挟んだ、それだけのことですよ」
「口の利き方を知らない二年だな」
「あんたらも同じ二年だろうに」
 黙れ、と上級生の一人が後ろ手に携えた竹刀をふり上げる。
「分が悪いと知れれば手を上げる。なんとやらのひとつ覚えとは、よく言ったもので」
 初めから言うことを聞かなかれば暴力に訴えるつもりだったんじゃないか。それならば話が早いと播本はほくそ笑んだ。
「口の利き方を叩き込んでやるんだよ、二年坊主」
 使い込まれた竹刀が空を斬った。素人なんだから素振り用の軽い竹刀を持ち出せばいいものを、見栄を張って試合用の重いものを選んでくるあたり、やはり脳味噌が足りていないらしい。
 雑にふられた一閃をいなして、速度のない先端を掴んで捻り上げる。それだけで上級生は簡単に竹刀から手を離した。無理にふり上げた反動で痛めたのか、手首をおさえて呻き声を上げている。
「口の利き方は中学でみっちり叩き込まれてるよ。ついでに剣道もな」
 軽く打ってやる必要もなかった。播本の竹刀捌きを一目見ただけで、それが自分達には到底太刀打ちできないものだとわかったのだろう。
 チッとひとつ舌打ちを残して、彼らはそのまま立ち去った。後には踏みしだかれた煙草の吸い殻と、揉み合いの最中外れたらしい校章を刻んだバッジが落ちていた。

「おい、いつまでそうしている気だ」
 素人演技にしちゃあ充分だったよ、とぞんざいに告げる。その場に蹲ったままの華奢な身体は、本当に腰でも抜かしたのかぐったりと動かない。
 つくづく女みたいな奴だな、と手を差し出してやる。それでも動こうとしないので、苛々と腕を掴んで引き立たせて――そこでようやく様子のおかしいことに気がついた。
「……っ、おい、平野?」
 腕を引いた勢いのままにずるりと身体が傾ぐ。支えきれずに諸共しゃがみこむと、妙な呼吸音が耳についた。
 古い家屋を通り抜ける隙間風のような呼吸が、痩せた胸を引き裂かんばかりに吹き荒れていた。
――演技じゃ、ないのか。ぞっとする怖気が、ようやく背筋を這った。
「…ッ、ぁ゛……いき、できな、」
 絞り出す声は陽炎のように揺れている。両の目尻からぼたぼたと溢れる涙が支える播本の肩口を濡らして、薄いシャツに斑な模様を散らした。
「薬は? ないのか」
 青褪めた唇が何か言葉を紡ごうとする。しかし落ちるのは木枯らしにも似た軋む吐息ばかりだった。そうこうしているうちにゼィゼィと喘ぐ胸の雑音が膨れ上がり、平野は顔も上げられないままひどく咳き込み始めた。
「ゼぉ、ぜヒュ……ッあ……! キ…――っひュ、こほ、ゼぇっ……ぅ、く」
「ちょっと失敬」
 真っ青になった爪の先で震えながら学生服の裏を探ろうとするのを押し留め、代わりに片手を突っ込んだ。何か冷たいものが指先に触れて、引っ張り出すとそれは銀製の小さな容器だった。
 開けてみると、そこには丁寧に畳まれた薬包紙がいくつも入っていた。白い粉薬が三角形の内側でさらさらと揺れる。
「…ぇ、して」
 細い腕が播本の肩に絡みついた。胸を裂く咳に溺れながらも、必死で指先に力を籠めている。
「何だって?」
「か、ぇ……して」
「馬鹿、飲ませようとしてるんだろ――」
 ああ、そうか。こいつにとっては、さっきの上級生も僕も同じようなものなのだ。窒息しかけている今、誰が隣にいるかなどわかりはしないのだろう――いや、わかっていたとしても、平野にとって僕は忌むべき存在のはずだ。何故ならそうなるように仕向けたのは、僕自身なのだから。
「いいから、口開け。死ぬぞ」
 ほとんど酸素を取り込めなくなっている青褪めた薄い唇に、播本は半ば無理矢理に粉薬を押し込んだ。抵抗されることはなかった。噎せ込んで吐き出す前に手のひらで口を塞ぎ、飲み下すように背を上から下へと擦った。
 薬はどうにか胃に落ちたようだが、壊れたふいごのような荒い呼吸は落ち着かない。
「…ッゼ、ぜぇっ――ヒュウ、ひゅ、ぅ……こ、ほっ…けふ…ッ――」
 反応が鈍くなってきている。震える指先に一向に色が戻らないのを見て、これは素人には手に負えないとようやく判断を下した。
「医務室行くぞ」
 ぐったりとした四肢をどうにか動かして、不恰好に背負う。腰に走る痛みを覚悟しながら一息に立ち上がったが、平野の身体は思っていたよりもずっと軽かった。
「ぃい……です」
「は?」
「寮で、いい……で、す」
 平野はふるふると力なく首をふった。
「馬鹿か。僕じゃ手に負えないから、大人を頼るんだよ」
「平気……ッぜホ、げほッ――これくら、……すぐ、落ち着く、っ……から」
 寮でいい。なおも頑なに言い張る平野に、播本は渋々わかったと頷いた。そこまで言うのならしたいようにすればいいと諦めて、本校舎へ向かうつもりだった足を逆へ、夕飯時で人気の少ない寮へと向かわせた。