六 二月拾七日

いつか、みんなに手紙を書く日がきたら、きっと今日のことを思い出すよ。


 東京にもこの冬二度目の雪が降り、白む窓の外はしんしんと冷たい。火鉢に置いた鉄瓶が静かに噴き上げる湯気の音が、小さなハズレ角を暖めていた。
「もう全然わかんない……」
 野宮が鉛筆を机に転がし、教科書の上にばさりと突っ伏す。
「泣き言言うてる暇があったら、手ェ動かさんと」
 向かいの席の桝谷は転がってきた鉛筆を受け止め、淡々と弾き返す。夕飯後は窓辺か寝台で趣味の読書と決め込んでいる桝谷も、さすがに進級のかかった年度末試験が一週間後に迫っているとなれば、真面目に机に向かっていた。
「おれ、進級できなかったらどうしよう」
「そんときはそんときや」
 絶望感たっぷりに呟く野宮と、大した悲壮感もなく返事を寄越す桝谷。試験が近くなってからもう何度繰り返されたかわからないやりとりに、誰もが慣れきってしまっていた。
「進級できなかったら学校辞めさせられる……不出来な駄目息子に出す金はないて、田舎に送り返されて……年中凍てついた大地で強制開拓民にさせられるンだ……」
「せやから、絶望してる暇があったら手ェ動かす。……そんなにあかんのか?」
 しゃあないなァと呆れ半分に首をぐるりと回すと、桝谷は自分の席から身を乗り出して、先程から一向に頁の進まない野宮の教科書を覗き込んだ。
「まずな、ここの文の意味はこの単語を支点にして、全部こっちにひゅっと飛んできてるんや。でな、この主語がこっからここまでバーっとまとめとる。ちゅうわけでここの文の意味を一言で言うと、『ごちゃごちゃ言わんとまずはやってみィ』そないな風に言うてることになる」
「全然わかンない……何言ってるかわかンない……」
 な、簡単やろ? 得意げに笑う桝谷と対照的に、野宮は混乱を極めた目をしてますます泣き出しそうに頭を抱えた。
「師範学校生とはにわかに信じ難い雑な教え方ですね」
 桝谷の隣の机でやりとりを聞いていた原島が思わずため息を零す。
「やかましいわ。偉そうに、人のこと言えるんか」
「少なくとも、君よりかは幾分マシにできると思いますよ」
 それより、教えるなら向こう側に回ってやってください。さっきから君の影が邪魔で教科書が見えません。原島は迷惑そうに桝谷の羽織を肘で押しのけている。
「すまんすまん。よっしゃ野宮、もう一度言うで。ここをばーッと読んでいくとな、」
「瑞生ぃ、その『ばーッと』て何……」
「何って、ばーッとはばーッとや。ざーッとでもがーッとでもええけど」
 野宮は諦めた様子で、桝谷のよく回る口にうんうんと力ない頷きを返していた。

「ちょっと、二人とも。もう少し、声を落としてくれないかな」
 ついつい盛り上がりがちな仲良しコンビに、本江は自らも騒音の一部にならないように気をつけながらそっと注意する。
「おっと、すまん。……平野クン、大丈夫そうか?」
「今は落ち着いているみたいだけれど……多分、あまり具合は良くないんだと思う」
 本江は寝台の方をちらりと窺い見た。
 窓際に並んだ机から一番遠い寝台で、少し高めにした枕に半ば沈むような恰好で平野が眠っている。柔らかな湯気に暖められた寝台で目を閉じる横顔に苦しげな色はないが、時折つっかえたように弱く咳き込むのを見る限り、熟睡とはいかないようだった。
「試験の成績ひとつで落第しかねん俺らと違て、平野クンなら試験さえ受けられれば進級に問題はないやろうからなァ」
「試験さえ受けられれば、ね……」
 連日の冷え込みが厳しいのと乾燥した空気の影響か、平野の体調は年が明けた頃から下降がちだった。夜がほとんどだった突発的な発作が昼の授業中にも起こるようになり、胸を引っ掻くような咳が止まらなくなって早退する日が増えた。重い雪が降り積もった一週間前には、薄い胸をざりざりと抉るような呼吸に嬲られ一晩中喘ぎ続ける始末だった。夜更けに咳き込みすぎて夕飯を全て嘔吐し、しかしそんな状態だというのに嘱託の校医は雪で滑って転んで怪我をした患者で手一杯らしく、中々学校にやって来ない。そうこうしているうちに体力が尽きて酸欠に何度か気を飛ばし、しびれを切らした寮監が明け方に竹刀と重い仏語辞典で叩き起こして呼んだ町医者に(寮監の名誉のために敢えて記すが、寮監が殴って壊したのは医院の雨樋だけで、断じて医者には手を上げていない……哀れな医者は相当に怯えただろうが)注射を二本打ってもらってようやく落ち着いた。
 それからというもの、教室に顔を出すのがやっとの様子で、その日の授業が終わると夕飯も口にできず眠ってしまう日がほとんどだった。食堂に顔を出せない平野の代わりに、本江は自分の夕飯の米を山盛りで注文するようにして、余らせた米でこそこそと塩むすびを作って持っていくようになった。食堂のおばちゃんから細っこいくせによく食べるんだねえと笑われるのにももう慣れた。
「何かできること、ないのかな」
 おれ、いつも頼ってばっかりだからさ。色素の薄い友の寝顔を見ながら、野宮がしんみりと呟く。
「俺らにできるのは、なるべくいつも通りでいることやないかなァ」
「どういうこと?」
「自分でどうにもならんことをとやかく世話焼かれんのは、きっと平野クンにとっては身体のしんどさよりも、もっと精神的にしんどいことなんやないかと思うんよ」
 桝谷は珈琲を一口すすると、柔らかく目尻を下げて笑ってみせた。
「俺らはいつも通りでいようや」
 ちゅうわけで、勉強再開や。もっぺん教えたるから、よく聞けな。桝谷は羽織の袖を捲り上げ、野宮はしぶしぶ鉛筆を握り直した。

 ン、と小さな声と、寝返りをうつ小さな衣擦れ。見れば、平野がぼんやりとした目をしてこちらを見ていた。
「ああ、ごめん……やっぱりうるさかったよね」
「いえ……大丈夫です。少し休んだら、すっきりしました」
 身を起こそうとする仕草に咄嗟に手を貸しかけて、桝谷のさっき言った『いつも通りでいよう』の言葉を思い出す。そこまでの気遣いを必要としているのか――そう逡巡する間にも、平野はふらつくことなく自力で身を起こし、眠る前にひとつ開けたシャツのボタンを几帳面にとめ直し始めていた。
「ちょうどいい、一度休憩にしようや」
 俺、食堂でなんか飲みもん淹れてくるわ。言うが早いか、桝谷は椅子の背にかけていた詰襟を着流しの上から羽織って部屋を出ていった。大方あれは煙草を吸いにいったのだろう。
「僕も試験勉強しないと……本江君、今日進んだ範囲を教えてもらえますか」
「ええと……ここの最初から、十五頁分。試験範囲は今日のところまでだって」
 教科書を指差しながら、本江はそっと友の顔色を確認した。見たところ苦しげでなくても、彼の体調はあまりに油断がならない。
「ありがとうございます。遅れをとるわけにはいきませんね」
「啓、無理はいけねえよ? おれみたいな落ちこぼれはともかく、啓は余裕だろ」
 野宮が気遣わしげに言う。一度机についたら数時間は離れないであろう平野の性格を知っているからこそ、気がかりで仕方がないのだ。
「そうもいきません。やれるときに少しずつでも進めておかないと。明日できる保証はありませんから……」
 ありがとう、ともう一度儚く笑ってみせてから、平野は薄い唇を軽く噛んだ。
 明日できる保証はない――さらりと吐かれた言葉の重さを、本江は受け止めきれなかった。友の遣る瀬無さに寄り添うだけの度胸を持っていない自分に落胆した。

「本江クン、手紙届いてたでー」
 廊下も外も、凍りついたみたいに冷え切っとる――指先と頬を赤く染めて帰ってきた桝谷は、着て出た詰襟を小脇に抱えて部屋に入ってきた。部屋で脱げば寒い思いをしないで済むのにわざわざ先に脱いだのは、きっとそこに煙草の残り香を漂わせているからだ。
「手紙? 僕に?」
 なみなみと珈琲の入ったカップを支えるのとは反対の左手に、桝谷は薄い封筒を持っている。
「ほれ、ちゃんと『青南師範学校第一寄宿寮 本江恭二様』って書いてあるやろ」
 手渡された手紙の筆跡を一目見て、本江は思わず目を丸くした。
「これ、兄からだ」
 神経質そうな細い字体と、カリカリと音のしそうな掠れたインクの青滲みには見覚えがある。五歳年上の兄は上京した弟に律儀に手紙を寄越すような性格ではなかったはずなのだが、郷里で何かあったのだろうか。
「そうか、本江クンは次男坊やったな」
「姉さんからならまだわかるんだけれど……珍しいこともあるものだなあ」
 地元の中学と実業高校を卒業した後、世襲するように官吏となった兄は父の生き写しのように、無愛想でお堅く滅多に笑顔も見せない。本江が師範学校へ進学を決めたのとほぼ時を同じくして見合いで結婚し、小柄でよく働く気立てのいい嫁を迎え入れていた。
「驚いた。兄夫婦に、子どもが生まれたんだって」
 封を開けて急ぎ中身に目を通し、本江はもう一度目を丸くすることになった。
「そりゃあおめでたいことやなあ! 男か? それとも女か?」
「長男誕生、だってさ。名前は『れいいちろう』……出た、受け継がれる『嶺』の字」
 曽祖父の明嶺あけみねから始まって、嶺継みねつぐ天嶺あまね和嶺かずみねときて、嶺一郎。お堅い地方官吏の血筋はこうして受け継がれていくらしい。
「本江クン、叔父さんになったんやなァ」
「やめてよ、僕まだ学生なんだから」
 叔父さんか、としみじみ思う。次の正月には帰ったところでもう自分の部屋はなくなっているのだろう、とぼんやり考えて、上京してくるとはこういうことなのだなとつかの間の郷愁に囚われた。
 邪魔な教科書を寝台に放り投げて、返事を書こうと抽斗ひきだしから真新しい便箋を引っ張り出す。ペンにインクを浸してようやく、兄に手紙などこれまで一度だって書いたことがないと気がついた。
 嫡男ご誕生とのこと、心よりお祝い申し上げ――これでは固いか。早くお顔を拝見したく思います――いや、どうにもしっくりこない。考えれば考えるほど、兄と自分の関係性は霧の中に迷い込むばかりだった。
「手紙が書ける家族がおるって、ええな」
 書きあぐねる本江の背中に寄りかかって、桝谷がぽつりと呟いた。
「……そうだね。幸せなことだと思う」
 冷えた背中から微かに感じる煙草のにおいに、彼の孤独を見た気がした。
「俺も手紙、書きたいなあ」
「書けばいいだろ?」
 手紙の相手には困らないであろう野宮が無邪気に笑う。故郷の集落の人間全員を兄弟だと思っている彼には、桝谷の孤独は本質的に理解できないだろう。それは多少冷め気味ではありながら、そこそこの愛に恵まれて育った本江も同じことだった。
「書きたい相手がおらん」
「じゃあ、おれに書けばいいよ!」
「あほ、毎日同じ部屋で寝起きして授業も一緒に受けとる奴にわざわざ手紙書いてどないすんねん!」
 桝谷は吹き出すように笑った。俺が変なこと言うたから、また漫才みたいになってしもたやんけ……堪忍な。桝谷は大袈裟な身振りで今のはナシやと手を振った。
「瑞生が書きたいンなら、書けばいいよ。おれ、瑞生から手紙貰ったら嬉しいよ」
 桝谷は大きく目を見開いた。そんな言葉、生まれてこのかた一度だって言われたことがないという顔だった。
「……おおきにな」
 ここにおると、気楽になれてええな。目尻に滲んだ雫を手の甲でおさえて、桝谷はそっと呟いた。

「ああ、おれも手紙書きたくなってまった。よし、勉強はちょっと休憩!」
 野宮は真っ白なままの帳面を勢いよく破り取ると、先の丸まった鉛筆で早速書き始めた。さっきまで教科書相手に唸っていたとは到底思えない、滑らかな書きっぷりだ。
「僕もなんだか、段々と書ける気がしてきたよ」
 関係性や距離は忘れて、ただ書きたいことをそのままに綴ればいいのだ。そう思えば、自然とペンが紙に触れていた。
 本江が今一番書きたいこと――それはこのハズレ角の、二◯六號室の皆のことだった。兄が長男の誕生を伝えようと慣れない筆を執ったのと同じように、今一番大切な日々のことを、友のことを伝えたい。
「では僕も、家族に宛てて書いてみるとします」
 まあ、僕の場合は市電で数駅行くだけで直接会えますけど。原島はそっと笑うと、抽斗から原稿用紙を取り出す。
「便箋、あげようか?」
「いいえ、結構です。余らせた原稿用紙を、ちょうど使い切りたかったところなので」
 そうは言うが、原島が原稿用紙を先週買ったばかりなのは知っていた。長くなるかもしれないから原稿用紙がいいと素直に言わないあたりが、いかにも彼らしい。
「僕も書こうかな。……とはいえ先週書いたばかりですけれどね」
 二週も続けて手紙が届いたら弟は逆に心配するかもしれません、と思案げに、平野は机のランプを灯した。
「平野君の弟は、今幾つ?」
「三歳下なので、十三です。次の春には高等小学校に上がります……そうだ、そのお祝いを考えなくては」
 皆の中で一番筆まめなのは平野だろう。以前それとなしに訊いてみたら、弟の他に故郷で世話になった主治医に宛てて書いているのだと教えてくれた。
「なあ野宮クン、ほんまに君宛てで書いてもええん?」
「勿論! いつだって大歓迎だ」
「んじゃあお言葉に甘えて、遠慮なく。……あのさあ、俺手紙なんて書かへんから、便箋も切手も持ってへんのよ。野宮、貸してくれへん?」
「そりゃねぇよ瑞生! なンでおれへの手紙に、おれが金出さにゃならないんだ!」

 拝啓、兄上様――拙い言葉を文字に書き起こしながら、本江はふと思った。
 いつかの未来、ここの皆に手紙を書く日がきたら、そのときは今日のことをきっと書こう。冬の寒さも故郷の遠さも忘れる暖かい一夜のことを、ひとつひとつ思い出して綴ろう――そのときは今日よりも上手く言葉を紡げますようにと小さく祈った。