五 拾月三日 - 2/2

「野宮、カッチンコッチンやで。落ち着いて、いつも通りにしとったらええんや」
 平気平気! と無遠慮に肩を叩く桝谷だったが、
「してるがに」
「緊張のあまり訛りまで崩壊してんで」
 つっこみさえ追いつかない状況に手を広げてお手上げや、とため息をついた。
 寮を出るときから大騒ぎだった。緊張のあまり腹が痛くて動けないと朝から涙目になり、やっと回復してさあ出発と思いきや寮の階段から転がり落ちかけ、校門を出て早速逆へと歩き……とにかく散々だったのだ。目指す店が見え始めたあたりで突如ぼろぼろと泣き出した野宮を宥めすかせ、道行く人に同情され飴玉を貰い、ようやっと店に入るまで漕ぎつけてこれである。
 もう後は勢いと幸運に賭けてどうにかするしかない。意を決して店に入ると、カウンターに立っていた店主がちらりとこちらを見るなり、奥のテーブル席を促した。
 野宮はもうその場に倒れるのではというくらい顔を真っ赤にして、深呼吸なんだか過呼吸なんだかよくわからない息遣いで俯いている。隣に付き添う平野が背を擦ってあげているのがなんだか可笑しかった。逆の光景なら見たことはあっても、これは新鮮だ。
「女給さん、おらへんな」
 ひそひそと桝谷が囁く。日曜の昼を少し過ぎた頃、閑散とした店内には主人の他に従業員の姿はなかった。
「今日はお休みなのでは」
 だとしたら取り越し苦労でしたね、と原島。
「まァ折角の休日なんやし、有閑気分だけでも味わおうや」
 すんません、とカウンターに居座った店主を呼ぼうと片手を上げかけた桝谷の動きが止まる。
 店の奥から伝票を持った女性が現れた。年は恐らく五人と同じか少し上くらいだ。膝を隠すスカートが大人しい、柔らかな雰囲気を纏う可憐な少女だった。
「わお」
 ひゅう、と桝谷が小さく口笛を吹いた。
「ご注文はお決まりですか」
 落ち着いてしっとりとした声をしている。聞いた途端、野宮は大げさなくらい肩を跳ねさせた。
「俺、珈琲で。……こいつにも同じもんを」
 とてもではないが声を発せられる状態ではない野宮の代わりに、桝谷が口を開く。
「同じものをお願いします」
「じゃあ、同じで」
「僕もそれで。あとミルクを多めにいただけますか」
「あと水も」
 ばたばたと揃って珈琲を注文した五人に、少女は畏まりました、と静かに一礼し、カウンターの奥へと姿を消した。
「可愛ええ子やん」
 その一言だけで、野宮は耳まで真っ赤にさせた。
「ちゃんと顔見たか? なァ野宮」
「ほどほどにしてあげなよ」
 これ以上茶化すと、また泣き出してしまいそうだ。
「お待たせいたしました」
 やがて少女が珈琲を運んでくる。よせばいいのに、桝谷はわざと野宮に受け取らせた。受け取った野宮の手は可哀想なくらい震えていた。そろそろ罪悪感を覚えそうだ。
「なあ、おねーさん」
 ふいに桝谷が少女に話しかける。あまりに気兼ねなく自然な流れに、ひたすら俯くばかりだった野宮までもが思わずぎょっと顔を上げた。
「俺ら、こいつの同級なんや。こいつ……ああ、野宮っていうんやけどな? 野宮がここはいい喫茶店だ、気に入ったって毎日言うもんやから、気になってしゃあなくてな。ほんで皆で来たんや」
 ぺらぺらと話す中にさりげなく野宮の名前を混ぜてくるあたり、相当に手練れだ。
「それは、ありがとうございます。気に入ってくれたのですね」
「……野宮」
 桝谷が鋭く小突く。
「は、はいっっ! 気に入っただっ!!」
 ガチガチの野宮に思わず吹き出す桝谷。しかし野宮は必死だ。
 どうぞごゆっくり。少女は笑顔で一礼すると、足音を立てずに去っていった。
「ええやな。おまけにあれは、脈アリや」
 遠ざかる背中を見ながら、桝谷はしたり顔で呟く。
「今の会話のどこからいい娘だとか、ましてや脈があるだなんてわかるんですか」
 珈琲にたっぷりとミルクを注ぎながら原島が尋ねると、
「俺が話振ったとき、伝票に書き留める手を一度止めたやろ。ちゃんと話を聞こうとしとるってことや。それとな、野宮にお礼言うたとき、笑うとったやろ」
「接客業なら誰にでも愛想良くするものでは?」
「わかってへんなァ! 滲むような笑みやったやろ」
 あの笑みに男は弱いんや。思い出すように桝谷は頷く。
 緊張しすぎてカウンターの向こうを見ることはおろか、いまだに顔も上げられない野宮と、唯ひとり余計な口も挟まずよこしまな視線も向けずに彼の隣に座っているだけの平野。辺り構わず女性談義に花を咲かせる桝谷と原島を横目に、本江は意味もなくひたすら手拭きで汗をぬぐうばかりだった。

「美味かった、また来るわ!」
 カウンターに肘をついて少女に気さくに話しかける桝谷。少女も嫌な顔はせず、むしろ少し楽しげに応えている。これでは桝谷が口説きにきたようなものではないか、と本江は静かにため息をついた。
「ええ店やったやん、な? また来ような」
 店を出て、大きく伸びをしながら桝谷が言う。まあ、なんだかんだでいい休日ではあったと、本江も思っていた。
「あれ、本がねぇ」
 鼻先を冷やす風にコートを煽られながら、ふいに野宮があたふたとしだした。
「本なんて持っとったか?」
「鞄サ入れっぱなしだったはず……英語の授業で使うんだけンど……困ったな」
「店に忘れてきたんちゃう?」
「ばって、店で出してねぇよ」
「財布出すときに落ちたとか」
 そうかもしれない、どうしよう、と野宮は今来た道をちらちらと見た。
「いってきなよ。夕飯は取っておいてあげるから」
「ほんとか?」
 本江の一言に野宮は心を決めたらしい。すぐ帰っから、と言い残すと急いで踵を返した。
「門限超えへんよう気ィつけやー」
 ひとり道を戻っていく背中が、長く影を伸ばしている。
「グッド・ラック、野宮朝樋」
 遠ざかるその影に、桝谷は静かに親指を立てた。
「……桝谷君、まさかとは思いますけれど」
 その様子を見ていた原島が恐々と問う。
「なんや?」
「わざと野宮君の本置いていったとか」
「……全ての青春の恋愛の味方、その名も桝谷瑞生や」
 ああ、と原島は盛大にため息をついた。
「上手くやるかな」
 冬の前の寂しい空風が吹き付けて、コートを揺らす。
「俺達にできるのは信じること、それだけや!」
 信じて待ってやろうや。純粋に笑う桝谷に、ああ、いい奴だな、回りくどいけれど、と本江は思った。

 息を切らして駆け戻ると、店はちょうど閉店準備を始めているところだった。
「し、失礼しますっ!」
 勢いよくドアを開けると、箒を持った少女といきなり鉢合わせた。
「ああ、すまねぇ」
 驚いて箒を取り落とした少女に、野宮は慌てて謝った。顔を上げてようやく、真正面から彼女と話をするのはこれが初めてだと気がついた。
「さっきの学生さん……どうかしましたか」
 おずおずと落ちた箒を拾いながら少女は尋ねる。
「ええっと、忘れ物を、したかもで」
意識した途端にまともに言葉が出なくなった。ああ、こんなはずじゃないのに。桝谷みたいに楽しく、すらすら喋れたらいいのに。
「もしかして、これですか?」
 少女は箒を置くとカウンターの奥に消えていった。しばらくして戻ってきた手にあったのは、たしかに自分の使い古した英和辞典であった。
「それだ! ほんとにここに落としてたンだ。ありがと」
 本を受け取るときに手が触れた。柔らかくて小さな手だった。思わずどきっとして引っ込めると、少女ははにかんだように笑った。
「難しい勉強をしていらっしゃるんですね。……ごめんなさい、どなたのものかわかるかなと思って、勝手に中を見てしまいました」
 お嫌でしたよね、と顔色を窺う少女に、野宮はぶんぶんと首を横に振った。
「気にしねぇで。持ち主ば探そうとしてくれて、ありがと」
 少女は一瞬きょとんとした顔で野宮を見つめてから、笑顔でこちらこそ、と告げた。
「勉強は難しい。おれ全然ついていけねぇでさ」
 馬鹿、気になる娘相手に勉強ができないなんて言ってどうするんだ。頭ではわかっていたが、混乱する口は止められない。
「近くの師範学校の方ですよね」
 川の向こうの。少女の言葉に野宮は目を丸くする。
「なすてわかった?」
「それは、制服を見れば一目で判りますわ」
 可笑しそうに少女は笑う。
「そか、そだよな」
 野宮もつられて思わず笑っていた。
「わたしも、女学校に通ってみたかったな」
 秘密をそっと口にするように、少女はぽつりと呟いた。
「勉強が好きなの?」
「揃いの臙脂色の袴に、綺麗に結った髪をして、同じ歳の人達と教科書を片手に街を歩く。……そんな生活に少しだけ憧れていただけで」
 箒を握る小さな手に力が籠る。
「ここで働くのはつらい?」
「そんな、滅相もありませんわ。この店は好きです」
 少女は真剣な目をして首を横に振った。
「お客様もお優しい方ばかりです。けれどたまに、本当にたまに、女学生になったわたしを想像して、いいな、羨ましいなと思ってしまうんです」
 悲痛な表情を垣間見せる少女に、野宮は気の利いた言葉のひとつも返すことができなかった。

「またいらしてくださいね」
 出入り口で少女は笑う。西日に溶け入りそうな儚い笑顔に、野宮の鼓動は幾度となく跳ねた。
「あ、あのっ」
 野宮は上擦った声で叫んだ。
「なんですか?」
 心臓が早鐘のように打っている。もう壊れてしまいそうだ。呼吸が早る。いっそ壊れてしまえば楽になるだろうか。
「お、おれは、あな、あなたのことが、好きになって、しまいました」
 最後の夕日の欠片が川の向こうに沈んでいく。

「……で、あれからずっと泣き通しと」
 身も世もなく号泣しながら戻ってきたらしい野宮は寮の棟を間違えた挙句、別の部屋の人間に引き摺られて帰ってきた。そんなわけで、宥めすかして事のあらましを聞くのに随分とかかった。
「好きやって言うて、あなたの名前も知らへんのにそないなこと、って返されたって? そりゃそうやろ!」
 寝台にひっくり返って笑い転げる桝谷。やめなよ、と本江は諌めた。
「で、結局名前は教えてもらえず終い、ですか」
 同情を滲ませて原島が呟く。辛辣な彼もさすがに可哀想に思ったらしい。
「おじえて、もらた……」
 泣きすぎて枯れた声で、野宮はようやく小さく吐き出した。
「……ホンマに?」
 その答えに、桝谷は思わず真顔になって野宮の顔を覗き込む。
「ゔん。『サキ』ていうんだて……」
――それは、もしかしなくても。
「あの、それは」
 どうやら原島も同じことを考えていたらしく、寝台から腰を浮かせた。
「俺も、そういうことやと思うんやけど」
「どゆこと……?」
 混乱しきった野宮の肩をぽんぽんと叩くと、桝谷は幼い子どもに教えるようにゆっくりと言った。
「名前も知らへんのに困るって言われたんやろ? ほんでその後名前教えてくれたんやな?」
「ゔん」
「要はな、野宮クン。あの娘は君に名前を呼ばれてもええと思って名前を教えてくれたわけや」
 そこまで言っても野宮にはまだよくわからないらしい。
「また来でって、サキさん、言っでた……」
「うんうん、言うとったな。行っといで」
「また一緒に来てくれねぇか……?」
 桝谷はわざとらしくずっこけた。
「そこは二人で、やろ? せっかく思いが通じたんやから」
 野宮は弱々しく首を振った。
「みんながいねぇと、おれ、緊張して吐くかも……」
「そりゃえらいこっちゃ。今度こそ振られてしまう」
 当の本人だけが告白の成功に気がつかないまま、秋の夜長は更けていった。