祭囃子を頼りに川を渡ると、宵の気配に彩られたそこはもう華やかな会場だった。
晩夏の翳りゆく青い空に、賑やかな人の波。ひしめく露店の呼び声と、食欲をそそる匂い。
「うおおお祭だ!」
教科書の重さはどこへやら、野宮は一目散に駆け出す。
「野宮クーン、迷子になっても知らんでー」
「聞いてないですね」
弾丸のように飛び出した詰襟の背中はあっという間に雑踏に紛れて見えなくなった。やれやれ、とため息とは裏腹に楽しげな桝谷と、熱気で眼鏡が曇ると立ち止まる原島。彼らも彼らで、非日常に心を浮き立たせているらしい。
「本江君」
「何?」
隣を歩く平野に小さく呼びかけられて、本江は足を止めた。大鳥居の下、本格的に人混みに突入する前なら、大声を張り上げなくてもまだ聞こえる。
「気を遣わせて、ごめんなさい」
さっきの喫茶店で気もそぞろな皆を無理にでも止めてくれたのは、僕のことを気遣ったからでしょう。申し訳なさそうに平野は言った。
「いや、あれはそういうのじゃないから……僕も疲れてたし。顔色が悪いから休もう、だなんて言わなかったでしょう」
「やはり、気分が優れないように見えましたか」
ああまた余計なことを言ってしまった、と思った。
「あー……うん、まあ、少しだけ。ちょっと気にかかるな、くらいには」
諦めたように平野は小さく首を振った。
「本江君には敵いませんね。……あのまますぐ店を出てここへ向かわれたら、僕はついていけないと思っていました。どうやって皆の気分を害さずに中座できるかなと、そればかり考えていて」
ごめんなさい、と平野はもう一度呟いた。
「そういうときはさ、ありがとう、って言ってよ」
え、と驚いた目が真っ直ぐに向けられる。
「全部正直に言ってくれだなんて思ってない。口にするのがつらいことだってあるでしょう。僕はそういう機微を読んだりするのは得意な方じゃないけれど……何故か平野君の躊躇いには気づきやすいんだよね。波長が合う、って言ったらいいのかな」
だからさ、と続ける。
「気づけないことも多いと思うけれど、今回みたいに偶然上手くいったときには、ごめんじゃなくてありがとうって言って。その方が僕も嬉しいから」
平野はふわりと笑った。綺麗な瞳が一瞬滲んで、ひとつ瞬きをした。
「……ありがとう」
こちらこそ、と本江は返した。うっかり富山弁を炸裂させてしまったのも、悪いことばかりではなかったらしい。
大鳥居の向こうからばたばたと走ってくる詰襟姿。
「店のおっちゃんサおまけしてくれた!」
息を切らして戻ってきた野宮の両手には、きらきらと艶めく林檎飴がちょうど五つ。
「子どもか」
一人一つ林檎飴を片手に参道を行く。大人も子どもも入り乱れて、皆楽しげだ。
「……おっと、すまん」
「いいえ、こちらこそ」
ちょうどすれ違った人波の端が平野の肩に触れて、華奢な身体が軽くよろめいた。見れば、高等学校の制服を着た大柄な背姿が、すまないと片手を上げている。丸帽に二条の白線と橄欖の葉の校章を見るに、一高の生徒だろう。
「初めてです、こんなに大きな祭にくるのは」
平野はさっきから物珍しげに足を止めては露店を覗き見たり、行き交う人が手に持っているものを興味深げに眺めていたりする。野宮や桝谷ほどわかりやすくはないが、彼も非日常を楽しんでいるのだ。いつもは大人びているが、今日の彼は年相応に見えて、本江はそれが嬉しかった。
「僕も初めてだ」
本江もここまで大きな祭は初めてだった。故郷にも祭はあったが、これだけの人数が集まることはない。そもそも集まる人がそこまでいないからだ。
「あんたら揃って田舎もんやなあ! 大阪のはもっと盛大や。俺の住んどったとこの祭は商売繁盛の神様に捧げるいうて、キラキラしい飾りや歌の大騒ぎ……」
林檎飴で赤く染まった舌を覗かせて、桝谷は自慢げに語る。
「おれんとこだってすっげぇぞ! とにかく、食えるもんはなンでも食う」
桝谷ばかりに言わせておけないと、野宮も負けじと反論する。
「祭がすごいんやなくて住んどる人がすごいんやな、それ」
褒められたと思って野宮はにこにこと頷いた。
「平野クンのところの祭はどないやったん?」
訊かれて、平野は昔を思い出すような柔らかな目をした。
「山間の小さな町ですから、あまり大々的なものはありませんでした。印象的なのは……雪まつり、かな」
「雪まつり? ええな、寒いとこって感じがするな」
「僕のところにもあったよ、雪まつり。雪が多く降りすぎて集落を押し潰さないようにって、神様に捧げものをして祈るんだ」
本江は生まれ故郷の祭を思い出していた。ささやかな祭ではあったが、一年に一度、集落の全員が集う宴の夜は何か特別なことが起こるのではないかと心が浮き立ったのを覚えている。
そういえば、富山も長野も雪深い地域だ。似たような祭があることがなんだか嬉しかった。
「本江君のところはそういう意味合いの祭だったんですね。僕のところは少し違って……降った雪が溶けて川に流れて、春になったら海の恵みとなってこの地に戻ってきますように、と願いをこめる祭でした。長年海側との交易で暮らしてきた地域だからでしょうか」
「へえ、同じ雪祭りでも違うんだ」
「おれンとこは雪なンて見慣れすぎて、祭にもしねかっただ」
「そりゃあ、未開の地やからなァ」
「皆の生まれ故郷に、いつか行ってみたいです」
平野は笑う。そうか、全員違うところからきたのだな、と本江は改めて思った。
人の流れはいつの間にやら、五人を拝殿の前まで押し流していた。露店の呼び声も少し遠のいて、夏の終わりのぬるい宵風が薄い着物の袖を撫でる。
「せっかくだし、お参りしていこう」
今後のいい学生生活と、未来を祈って。賽銭箱に銅銭の転がる涼やかな音がする。
「後期までに教科書が揃いますように」
原島の小さな声に、
「うわ、切実やな。俺もそう祈っとこう」
南無南無、と桝谷が一心に手を合わせる。
「借りた本無くしたのがバレねぇように!」
桝谷に倣って南無南無と祈る野宮。
「……誰に借りたん?」
「先輩に」
「そらあかん」
神頼みより先輩に土下座する方がええんやないの、と桝谷は呆れ半分に呟く。
「普通は無くした本が出てきますように、じゃないんですか」
「あっそれがいぃ! 出てきますよーに!」
お参りにしては随分と賑やかになってしまったなと、本江は苦笑する。
「来年も皆で来られますように」
平野は目を閉じて静かに祈っている。……が、口元は堪えきれず小さく笑っていた。野宮と原島のやりとりに笑っているのだ。
「次は教科書ナシで来ような」
「本当に。腕が取れそうです」
ひ弱やなあとまた揶揄われて、原島は教科書のぎっしり詰まった風呂敷包みを桝谷の膝裏に無言で炸裂させた。
「痛ッたあ! 何すんねん!」
膝から崩れ落ちて呆然と叫ぶ桝谷と、それを見て笑う野宮。
「そろそろ門限だし、帰ろうか」
本殿を後にして歩き始めた五人の後ろでどぉんと大きな音と歓声が上がった。振り返ると、金色のしだれ花火が人々の向こうに散っていくところだった。
