「……疲れた」
結局解放されたのは夕食の時間もとうに過ぎて、あと半刻もすれば点呼が始まる頃だった。気がつけば二時間も拘束されていたことになる。
人気のない食堂で二人きり、ぐったりと端の席に項垂れる。
とにかく腹がヘった。ごまんと食事は出されたが、異様な気配に圧されて碌に喉を通らなかったので夕食を逃したのは惜しい。
「平野君、悪かった。入ればいいなんて軽々しく勧めたりして、本当に悪かった」
実際にこの目で見るまではふんわりとした憧れを抱いていた自分を省みて、尽きぬため息がまたひとつ落ちる。きっとそういうものなのだ。よく知らないがゆえに憧れる。よくあることだ。
少なくとも僕達二人には合わない。それだけははっきりとわかった。もしも万が一にも、あの空間が心地良いと思える日が来てしまったならば、それはあの会長による洗脳が完了した証になるだろう。めでたく従順で盲目的な信仰者のできあがりだ。
「本江君、頂いた特別推薦とやらはどうするのですか」
最早疲れを隠すこともなく平野が呟く。
「一番の問題はそれだよ。このままだと断れない……どうしよう」
結局二人は最後までほとんど押し黙ったまま、時折同意を求められてニコニコと愛想笑いに頷くぐらいのことしかしなかったのだが、会長には気に入られてしまったらしい。内部推薦などという謎の推薦枠まで持ち出されて、気がつけば本江まで正式に勧誘を受ける始末だった。
「すみません、僕が一緒に行ってほしいなどと頼んだばかりに」
「いや、そもそもは僕が言い出したことだ。断じて平野君のせいではないよ」
それとなく平野を辞退させる方向にもっていけたらとあれこれ策を練ったのに、あれよという間に二人とも絡め取られて、これでは何のために協力したのかわからない。
こうなったら、二人でどうにかしよう。なんとかして入らないで済む方法を考えよう。本江の言葉に、平野はいつにもなくしっかりと頷いた。岩よりも固い結束意識が芽生え始めていた。
「平野、今すぐなんでもいいから他に入ればいい。……そうだな、僕みたいになんとなく雑誌部にでも」
他にやりたいことがあるから辞退したいというのは理に適っているし、意志を貫き通すことを美徳と考えそうな校友会の面々には効く気がした。
「総代を務めたものは毎年校友会に入っています。これは慣習というより、最早伝統のようで……」
伝統というのもまた、先輩方が美徳としそうではありませんか。冷静な平野の言葉に、本江は頭を抱える。
「……身体があまり丈夫でないから、文武両方をやるのは厳しいと教師に願い出たら」
苦し紛れな意見に、平野は微かに笑って首を振った。
「できれば、都合よく体調を利用したくないんです。できないことは正直にできないと言いますが、気乗りしないものを避ける理由にするのは……」
「ごめん。悪かった、今のは無しで」
生まれつきの虚弱体質など望んで得たものではないのだから、少しくらい弱さを都合よく使ってもバチは当たらないだろうに。平野はそういうことはしない人だった。
「お前達、学校には慣れた頃か?」
夕食もとうに終わり訪れる人もいないはずの食堂に、ふらりと現れた人影。
「こんばんは、名雪先生」
名雪知巳。彼は一風、いやかなり変わった教師だった。洋装令などどこ吹く風で、いつも同じ年季の入った着物で通している。失礼がすぎるので口が裂けても本人には言えないが、教師というよりは留年した大学生といった方がしっくりくる風貌をしていた。まだ三十がらみの若い教師だが、妙にこの学校によく馴染んでいた。実はここが迎賓館の頃から棲み憑いている妖怪です、などと言われてもうっかり信じてしまいそうだ。
国語を教えているが、専門は哲学だという。集団から頭ひとつ抜きん出るほど背が高く痩せぎすの彼はどこにいてもよく目立った。ふらふらと学内を彷徨い、教員用食堂があるというのにそちらは一切使わず、狭い食堂で学生に混じってひとり飯を食う姿は異質というより最早異端だ。
「青春は悩みが尽きないものだよな。俺がお前達くらいの頃は毎日川向こうの女学校のことばかり考えていたもんだ。お前達の悩みもそういうもんか?」
夕飯食いっぱぐれたもんだから、なんか作りにきたんだ。一緒にどうだ? 名雪は返事も待たずに厨房に入ると、勝手知ったる様子で食材を漁り始める。
「名雪先生。入りたくない課外活動に無理に勧誘されたときは、どうやって逃れればいいでしょうか」
名雪になら尋ねてもいい気がして、本江は単刀直入に切り出した。
「本江君、そういうことを訊くものでは、」
平野が慌てて止めに入る。そんな二人を見て、名雪はにやりと笑った。
「これはまた直球だなあ! そういうことは一番教師に訊いちゃいけないもんだぜ」
「すみません……」
「まあいい。俺はそういうの好きだ。訊く相手を間違えなかったことは褒めてやろう」
支那そば食うか? 訊かれて僕は反射的に頷いてしまった。平野は丁重に断ったが、名雪は構わず三人分、いや四人分はありそうな麺をぞんざいに鍋に放り込む。
「ずばり聞く。入りたくない課外ってのは、校友会だろ」
しまった野菜が全然ねェや、とぼやきながら名雪は言う。
「どうして、わかったのですか」
「平野、お前が今年の総代だってことは知ってる。……驚くなよ、俺もかつては総代やってたんだ。今やその片鱗もないけどな。んで、何ひとつ疑うことなく校友会に入った」
語り口は淀みなく、名雪はようやく見つけてきたらしい大根と白菜を、お世辞にも器用とは言い難い豪快な手つきで切り刻んでいく。
「俺が入った頃はまだ学生運動も序の口で、ただただ上級生が悦に入って言論、討論、華の学生時代万歳……そんなことを叫ぶくらいだったな。はっきり言っておく、あれは憧れる人間にはいいが、疲れると感じる人間には地獄だぜ」
ま、そんなこんなで、俺は卒業までに真面目でいい子な魂をすっかり失ったというわけだ。自慢とも自嘲ともとれる口ぶりはどこか楽しげだ。
麺を茹でる傍ら野菜も一緒に放り込んで程よく煮込んで、味付けは軽く塩胡椒を振っておしまい。あっという間に完成した即席の支那そばは普段の寮食よりもなお質素だったが、空きっ腹にできたての料理は非常に魅力的だ。
熱いうちに食えと出される。一口すすって驚いた。腹が空いているせいかもしれないが、びっくりするほど美味い。
「知ってるか? 校友会には連帯推薦制度ってもんがあるんだ。校友会の推薦資格を得た者が、自分とともにもう一人入れてくれないかと校友会側に打診できる制度だ。元々は校則に触れずに外部の思想家や大学生を課外に参加させるための抜け道的制度だったんだが、今はほとんど廃れてる。当時より学生の数が増えたから、学外から人を呼ぶ必要がなくなったってわけだ」
これは独り言なんだが、と前置きしてから名雪は言葉を続ける。
「校友会側は二人とも許可するか、二人とも認めないか、どちらかしか選べない。これも制度ができた頃の名残だな。危険な思想家や活動家をおいそれと入れるわけにはいかないといったところか」
「そんなものがあったのですか」
「実際に使った人間はほとんどいないから、誰もが存在を忘れてるだろうな。回りくどい言葉で、ちゃーんと校友会規則に書いてある」
上手く使えよ。名雪はそれだけ言い残すと、さっさと食堂を出ていってしまった。後にはとても食べきれない量の支那そばだけが残った。食べる? と駄目もとで訊いてみたが、平野は充分ですと首を横に振った。いくら腹が減っていたとはいえ、本江ひとりでは片付けられない。部屋に持って帰ろうか。
「……つまり、どういうこと?」
「校友会側が来てほしくないと思う人物を連帯推薦して、二人とも認められないように仕向けたらどうだと、名雪先生は言っているのではないですか」
なるほど、と思った。制度を逆手に取れということか。
「校友会にとって厄介な人物を連れていけばいいわけだ」
そんな人いたかな、と思考を巡らせる。ここの生活にもだいぶ慣れたといえど入学してまだ数か月、交友関係も然程広くなければ、上級生に顔が利く知り合いもいない。
「校友会に入ってほしくない人……周囲に流されなくて、伝統より新しい風が好きな人……あ」
ふと一人の姿が脳裏に浮かんだ。
「僕、思いついたかもしれない」
協力してくれるかはわからないけれど、試す価値はあるかもしれない。本江はある人物の名前を、平野の耳元に囁いた。
翌日、校友会室の前には本江、平野と、もうひとり。
「早速取材の機会ば作ってくれるなンて、やっぱし持つべきは友だなぁ! な!」
「野宮君、巻き込んでごめんなさい」
「ごめん。……野宮君以外、思いつかなかったんだ」
良くも悪くも真っ直ぐで、一癖も二癖もある校友会の面々とも正面からやり合えそうな人物。北からの異端児、野宮朝樋をぶつける以外の策を僕達は捻り出せなかった。
「ちょうど校友会サ雑誌の取材ば申し込もうと思てたンだ。だげんど先輩方サ言うンにゃ校友会だけはやめとけ、無理だて……やる前からできねえって言われンの、おれ一番悔しぃンだ! で、受けて立ったとこだったンでほんと嬉しい、ありがとな!」
「う、うん。こちらこそ、ありがとう」
校友会には手を出すなと言った雑誌部の先輩方の気持ちもよくわかる。野宮の奔放さに感謝しつつも、本江は少しだけ雑誌の先輩方にも同情を向けた。
「失礼しまぁす!」
二人のときはあれだけ躊躇った扉を、野宮はいとも容易く開ける。
「はじめまスて、一年の野宮朝樋といいます! なんちゃら推薦? ンまぁよっくわかんねぇけど、啓……平野君に推薦ばされて、ここがどっだとこか知りたくて来ますた!」
招かれる前から全力で部屋に乗り込んだ野宮は開口一番、例のきつい訛りを炸裂させた。相変わらず隣で聞いていても何と言ったのかほとんどわからない。入学初日からこれを聞き続けている僕達はゆっくり話してさえくれれば大抵の言葉は理解できるようになっていたが、こうも早口でまくしたてられるとさっぱりだ。
「早速取材いいですか? あっすげぇごちそう! これ食ってもいいンですか?」
上級生の顔が見る間に引き攣っていく。これは予想以上に大変なことをしてしまったかもしれないと本江は青褪めた。推薦を取り消しにしたいだけで、必要以上に怒らせて今後の学生生活に影響を及ぼすのは避けたい。
しかし野宮の弾丸のごとき会話は止まらない。もうどうにでもなれと、本江はテーブルに出された菓子を無言でつまみ続けた。
その夜、部屋にひとりの上級生が訪ねてきた。ひどく疲れた様子で、協議の結果、連帯推薦制度第二項の規定に基づき両名の推薦を取り消しとする、とだけ告げてふらふらと帰っていった。階段を下りかけながら、ああ言い忘れていた、本江の特別推薦も同上とする、と振り返りもせず付け加えて姿を消した。
「……おれ、またなンか嫌われるようなことしたか?」
やりとりを見ていた野宮がすまなそうにする。そうじゃないんだ、と本江は首を振った。
「嫌われたんじゃない。方向性が合わないとはっきり伝えられただけさ」
とにもかくにも、野宮のおかげで二人は晴れて自由を手に入れた。
「野宮君、本当にありがとうございました」
平野の礼に、野宮はぶんぶんと首をふる。
「礼ば言われるよーなこと、おれ何もしてねエぞ! ただ楽しく話しただけだ。次号のネタもきっちり手に入ったし、おれの方こそ助かった。ありがとな!」
次号はおれの書いたもンが一面間違エなしだ、絶対読んでくれよ。心底嬉しそうな野宮に、適材適所とはまさにこのことだと思う。
「ところで平野君、結局文化部はどうするんだい」
「ふり出しに戻ってしまいましたね」
校友会に入るしかないと浮かない顔をしていたときより、どことなく楽しげだ。
「啓、迷ってンなら雑誌部にこいよ! 書いても書かなくてもいぃし、負担にもなりにくいと思う」
えっ、それはどうだろう。すかさず勧誘を始める野宮に、本江は思わず待ったをかけたくなった。部員が……というより野宮と上級生が喧々囂々と騒ぎ立てる、時にペンやら紙やら拳やらが飛び交うような場に平野を呼び入れてもいいものか。
「平野君、いいのかい。校友会もすごかったけど、雑誌もなんというか……別方向ではあるけれど強烈だよ」
どういうことですか、と平野は首を傾げる。
「趣味人が多いんだよね……こだわりが強い人達の集まりというか」
学内誌の締切前の定例会など、話し合うべきことは多いし時間はないしで皆気が立っていて、隣の部屋からもう少し静かにしてくれと苦情が入るくらいの大音声で延々怒鳴りあっていたりもする。平野が貧血を起こしやしないか些か……いや、かなり不安だ。
「雑誌部のいいとこは、いろンな人がいることだ! 楽しいぞ」
本江の不安も知らずに、野宮は一度見学に来るだけでもいいから、としつこく勧誘を続ける。結局、平野はきょとんとしながらも頷いてしまった。――ああ、これは僕が引っ張られていったときと全く同じ流れだ。
結局、雑誌部とは行き場のないものの受け入れ皿でもあるらしい。そういうところがあってもいいかなと、本江は諦め半分に思った。ついでに、怒鳴り合いの論争からなんとしてでも平野を守りきらなければと決意を新たにした。
月末に発行された学内誌の一面を飾ったのは、野宮の渾身の取材による校友会の歴史と現状についての暴露記事だった。歴代の卒業生やお偉いどころから抗議がくるかこないかの瀬戸際を、駆け抜けるような筆致で見事に書ききったそれはあっという間に話題になった。
でき上がった記事を読んで、本江は驚愕の事実を知る。
名雪知巳。彼こそが現在の校友会の基礎を作り上げた人物であり、連帯推薦制度をはじめとした数々の抜け道的制度を確立させ、外部から有力な人間を呼び寄せて改革を迫った伝説の会長であった。名雪の悪魔的ともいえる統率力は校友会を会長至上主義の盲目的な集団へと作り変え、現在にまで至るという。
頭ひとつ分抜きん出た背の高い人影が、夕飯前の混み合う食堂に今日もふらりと現れる。
本江は慌てて雑誌を閉じた。
