翌日、午後の最後の授業が終わってすぐに、謳風寮二◯六號室には部屋の五人全員が揃っていた。
今日の授業が終わったら部屋に集合してほしい。夕飯までの時間を僕にください。朝一番に突然そんなことをお願いして回った本江に皆は驚いたようだったが、いつにもなく真剣な気迫に圧されて、わけもわからないまま従った。
「委員長、何が始まるん?」
突然の召集司令をかけた本江を茶化して委員長と呼ぶ桝谷と、何か面白いことが始まるに違いないとそわそわしている野宮。心底面倒だとばかりにため息をついて読みさしの本から目を上げようともしない原島と、真意を測りかねて不安げな平野。全員をゆっくりと見回し、これから話そうとしていることをもう一度頭の中で整理してから、本江はようやく口を開いた。
「今日はこの部屋の約束事を決めたくて、集まってもらいました」
「なんやそれ」
くだらん校則と寮則に加えてまた規則か。教師になろうだなんて奴はホンマに規則が好きやねェ。桝谷のへらへらとしつつも鋭く抉る物言いを、本江は敢えて無視して続ける。
「みんな親元を離れて不安なのは同じだ。当然上手くいかないことも、不満だってある。だけどそればかり言ってたってどうしようもないだろ? 思い通りにならないことはそりゃあある、あるけど、どうしようもないって言葉で誤魔化して諦めて終わりにしたくないんだ」
「つまり、君は何が言いたいんですか」
ぱたんと本を閉じる音。見れば、原島の感情の薄い視線が射抜くように本江を捉えていた。
「僕達、どうしたらもっと上手くやれる? 全員でここにいる意味を作ろうなんて言いたいわけじゃない。でも何か意味があるような気がするんだ……そう思いたいだけかも。せめて気づくきっかけくらいは作りたいというか……」
あんなに整理して、寝る間も惜しんで思考を言葉にしたのに、いざ口にすると理論不足で要領を得なくてなにひとつ上手く伝わらない。自信が消えていくとともに語気も曖昧になっていき、それが余計に説得力を失わせていく。
「おれ、本江の言ってっことわかりてぇ。わかりてんだばって、おれ頭わりぃからさ、もっと整理しでくんねば、おれには難しんだ」
いつになく張り詰めた空気に圧されて、端っこで神妙な顔をしていた野宮がぐっと身を乗り出して言う。
「だはんでお願ぇだ、もう一度言ってけ。おれがわかるまで何遍でも、言ってけ」
これまで見たこともない野宮の必死な顔に、本江は喉が詰まる心地がした。不意にこみ上げた棘の痛みをぐっと耐えて飲み込む。馬鹿、言いたいことが上手く言えないからって泣くやつがあるか。折れそうな弱い心を殴りつける勢いで、涙など意地でも流すものかと唇を噛んだ。
どう言えばいい、何が足りない、どうしたら誤解させることなく伝わる? もっとゆっくり、いやもう一度言いたいことをきちんと整理し直してそれから――
「なあ、平野クン。きみ、煙草がだめなんやろ」
寝台にだらしなく転がって、組んだ片足を揺らしながら。ふと思いついた世間話でもするように桝谷は言った。
吹きこぼれ寸前だった思考回路に突然冷水を浴びせかけられて、本江は言葉を失った。原島も野宮も、桝谷の予期せぬ発言に思わず黙り込む。
言葉の先にいる平野だけが、表情ひとつ変えずに座っていた。
「気づいていたのですか」
驚くでも責めるでもなく、淡々と事実の確認だけを求める口調に、桝谷は俄かに破顔して、
「いや、気づいたんは昨日の夜や。しんどそうな咳してるなあ思て……知らんかったとはいえ、悪かったな。……で、煙草の臭いもだめか? 例えば、吸うたばっかりのやつが同じ部屋におるだけでもしんどいもんなんか」
「いえ……余程体調を崩しているときでなければ、それくらいは恐らく大丈夫です」
桝谷の質問の意味を測りかねながらも、平野はぎこちなく答える。
「ああよかった。なら俺、ひとつ約束する。金輪際、この部屋で煙草は吸わへん。……外で吸ってくるのは許したってや。口寂しゅうてどないしょうもないんや」
なァ本江クン、きみはそういうことが言いたいんやろ。桝谷は横目で笑ってみせる。
「なるほど、僕もようやく理解できました」
本江が答える前に、原島が頷いた。
「なら僕は、寮を抜け出すときには一言残すようにします。それでいいでしょう?」
「そんなん当たり前やろ。門限守って帰ってくるようにせェ」
大体週に何遍も夜にこそこそこそこそヤモリじゃあるまいし、どこ行っとるんや。ええかげんにはっきりせんか。ぴしゃりと窘めた桝谷に原島は淡々と、
「悪いけど、それについては答えられない。いなくなることだけは必ず伝えるようにするから、遅くなっても上手く誤魔化してくれないかな」
「なんや、そこまでして出かける用事って逆に気になる……」
「それだけは言えない」
ばっさりと切り捨てたと見えた原島だったが、眼鏡の奥の目がくつくつと笑っている。彼がはっきりと感情を見せるのはこれが初めてではないかと本江は思った。何を考えているのかよくわからないのは相変わらずだが、少なくとも同輩に興味も関心も抱かないわけではなさそうだ。
程度の差こそあれ、誰しも人に言えないことはあるだろう。原島が自分のことを頑なに口にしないのは、彼なりに上手くやっていこうとするためのひとつの結論なのかもしれない。
「僕は……もう少し、自分のことを話しておこうと思います」
遠慮がちに、しかし確かな意思を感じる声音。そっと一歩を踏み出すような平野の切り出し方は、冗談混じりに部屋の決めごとを提案し合った先の二人とは重みが違うように思えた。
「平野クン、無理に話さんでもええんよ? 暴露大会しようってことやないんやから」
気遣わしく声をかけた桝谷に、平野はありがとう、と滲むような目をして応える。
「大丈夫、無理はしていませんから。無理ではなくて、少しの勇気……なんです。僕はいつか、誰かの支えとなれる人間になりたい。そのためにはまず僕自身が、誰かにほんの少しでも寄りかかる術を知らなくてはならない、と思ったんです」
穏やかで落ち着いた眼差しに、僅かな躊躇いの影が揺らぐ。
「僕は生まれつき、あまり身体が丈夫ではないんです。喘息という病で、簡単に言えば、少しの刺激や気候の変化で呼吸が苦しくなってしまう。故郷を離れるのも、親兄弟以外と生活を共にするのも初めてなので、どれだけ迷惑をかけてしまうか自分でもわからなくて。うつるものではないので、それだけは安心してください」
一気に言い終えると、平野は肩を落として俯いた。袖口に隠して握り込んだ指の微かな震えに、彼がそれを言葉にするのにどれだけの覚悟が必要だったのかが見てとれた。
「なァ、平野クン」
桝谷はそんな息詰まる決心をそっと解すように、
「誰しも『これだけは誰に何と言われても無理、無理なもんは無理、どないしょうもない!』ってことがあると思うんよ。ひとりならそれで終い、それこそさっき本江クンの言うとった『どうしようもないって言葉で誤魔化して諦めて終わり』なんやろうね。せやけど俺らはひとりちゃう。誰かの無理も別の誰かにとっちゃお安い御用だったりするんや」
きっといつか快くなるとか、気にしなくてもいいとか、そんな単純な気慰めの励ましを求めているわけではないことを桝谷は理解していた。軽々しい同情はせず、ただ平野の覚悟の重さに心を寄せることで、張り詰めた糸を緩めようとしていた。
こんなにも繊細に人のことを気遣える人物であったのか――本江は驚いていた。傍若無人で軽薄な奴と早々に判断を下していた自分は、もしかしたら彼の一部分しか見ないままにそう思い込んでいたのかもしれない。
「ありがとう、ございます」
「それ、それもナシにしようや。敬語。なんちゅうか、堅苦しゅうてかなわんわ。同輩なんやし気楽にいこうや、な!」
桝谷は本当によく表情が変わる。真面目にものを言ったかと思えば、くるりと面を返すように屈託無く笑ったりする。変わり身の早さそれ自体は意図的なものなのかもしれないが、間を見計らう観察眼と人を惹きつける話力は天性のものだろう。
「あ、あのさ、おれ……」
さっきから発言の機会を今か今かと窺っていた野宮が、和んだ空気にようやくとばかりに口を開く。
「おれ、みンなのこと、名前で呼びたい。いぃか?」
「俺は別に構わへんけど。それ部屋の決まりごとと関係あらへんな」
なんだ、そんなことかと寝台にひっくり返って伸びをする桝谷を嗜めるように、
「いいんじゃないですか。おい、とかお前とか呼ぶのはやめて、名前で呼ぶ。真っ当な決まりだと思いますよ」
淡々と返した原島に、だろ? と野宮は邪気のない笑顔を見せた。
「おれ、気ぃ抜くとすーぐ訛っからさ。名前の一文字で呼ばせてもらってもいぃか? 名字より名前の方が仲間! って感じがするし。本江は『恭二』だから名前の上の一文字ばとって恭、啓司は啓、崚はそのまンま崚、ンで瑞生」
「なんで俺だけそのままやねん!」
「語呂が悪ぃだろ」
「その通りやけど、なんや、もやもやする……」
桝谷の叫びをよそに、野宮は心底嬉しそうに新しい呼び名を口ずさんでいる。恭、啓、崚、瑞生。やっと、ちゃんと呼べる。その様子を見て初めて、彼にとって生まれ故郷の言葉が伝わらないというのがどれほど心細いことだったのかわかった。
どんな会話であろうと積極的に混ざろうとしていたのは、いや積極的がすぎて疎ましがられるほどに誰彼構わず口を突っ込んでいたのは、少しでも早く東京の言葉に慣れるためだったのか。何を言っているのかわからないと呆れられても貶され半分に失笑されても、わりぃわりぃ田舎もンでさぁ! と笑い飛ばしていた彼は、その裏でどれだけ落ち込んでいたのだろう。次こそはと悔しい思いをしていたのだろう。
「朝樋って、読みとしてはそう珍しくもない名前ですけど、漢字はあまり見ないものですよね。何か特別な意味でも?」
何気ない原島の問いに、野宮はぱっと顔を輝かせた。
「よくぞ聞いてけぇだ! 朝樋の朝をア、樋の字をトイと読むとな、おれの名前はアトゥイとも読めンだ。これな、アイヌの言葉で海って意味なンだ」
「つまり、ひとつの言葉でふたつの意味があるんですか。いい名ですね」
野宮は得意満面に頷いて、
「だろ? ばっちゃがつけでけだンだ。おれのとっちゃとばっちゃは生粋のアイヌだけンど、かっちゃは本土から渡ってきた和人だはんで、おれはアイヌと和人両方の血を引いてンだ。だはんで名前もアイヌと和人両方の言葉でできてンだ。ばっちゃはおれのことアトゥイ、海の子、って呼ぶよ」
相変わらず思わず聞き返したくなる訛りっぷりだが、不思議と彼の言いたいことはきちんと伝わった。そうか、話す方だけではなくて、聞く方も聞く気がなければ、わかろうとしなければ上手くいかないのか。今更にそう気づかされたように思った。
「さて、言い出しっぺの本江クン。君は何を提案してくれるん?」
そろそろ考えもまとまってきたやろ。桝谷は不器用で口下手な本江を辛抱強く待ってくれていた。
「具体的な方法はまだ思いついていないんだけれど……」
彼らのやりとりを聞きながら、ようやく朧げにひとつの形を成してきたばかりの考えを、本江はおずおずと口にする。
「もっとこの学校での生活を、寮でのことを、みんなで共有できたらなと思っていて。日々のちょっとした気づきでも、次の授業の持ち物変更についてでも、なんでもいいんだ。僕らはもっと、対話をするべきだと思う。でもどうするのが一番いいか、まだ思いつかなくて……」
なるほどなァ、と桝谷は腕を組んで思案する。
「週に一度、会議でも開いたらどうでしょうか」
書記なら僕やりますよ。司会は嫌ですけれど。眼鏡を直しつつ原島が言うと、
「酒飲みながらか! ええなあそれ」
「桝谷君、きみ酒も飲むんですか。曲がりなりにも師範生の分際で……」
ぱっと目を輝かせた桝谷に原島は目を剥いた。
「ちょこっとだけや。……なァ、今俺のこと不良や思ったやろ」
「別に」
言葉とは裏腹に、心底呆れたといった様子で原島はあからさまに目を逸らす。
「ちょっとくらいええやろ! 酒も煙草も知っとる方が何かと便利や」
「酒と煙草を便利に使う学生にはなりたくないです」
ぷっと吹き出す気配。見れば、平野が口元をおさえて笑っていた。
「すみません……ふふ、芸人さんみたいな掛け合いだなと思ったら可笑しくって……」
「よっしゃ、お堅い優等生を笑わせたで! 笑ってもらうんが大阪人の生きがいみたいなもんや、なァ原島?」
「僕は東京生まれです」
「っははは、最ッ高や! 原島クン、きみ大阪人の才能あるで」
「絶対嫌です」
なるほどこの二人、平野の見立て通り中々いいコンビになれるかもしれない。
「なあ、おれいいこと思いついたんだけど!」
言ってもいいか? と野宮は前置きしてから、
「おれな、将来なりてぇものがあンだ。……小説ば書く人になりてンだ。そンでな、今は毎日ネタ集めてンだ」
夢見る目をした野宮は続ける。
「ここであったことさを、ノートか何かにみンなで書き留めていくのはどうだろ? みンなは思い出や大事なことを共有できて、おれは楽にネタさ手に入る」
な、いいことばっかだろ? 得意満面に胸を張った野宮に、
「清々しいくらいに自分のためやな」
代わりにネタ集めるようなものやんけ。なァんか腑に落ちへんなァと桝谷はぼやく。
「いつか本が出たっきゃ、印税でうめぇもンご馳走すっからさぁ」
「おっ、言うたな? 俺今の言葉忘れへんよ」
しかし食い物と聞いた途端に桝谷の目が輝いた。さすが野生の申し子野宮、そういうときに人を動かす術には長けているらしい。
「やった、協力してくれンだね?」
見事に引っかかった桝谷が身を乗り出すのを、野宮はニコニコと頷いて受け止める。
「俺はええけど、皆はどうなん? こいつ……ちゃう、名前で呼ぶんやったな。野宮のネタ集めに便乗するんでええんか?」
まあいいんじゃないかな、と本江は曖昧に返事をした。言い出した手前きちんと考えなくてはと思いつつも、この様子ならばわざわざ決まりごととして縛らなくても案外上手くいくのではないかと考えを改め始めていたからだ。
「僕は構いませんよ。いい案なんじゃないですか。口頭ではなく書き込む形ならば、逐一全員を集めて伝える必要もありませんし」
煮え切らない本江の代わりに原島が仕切ってくれた。そうと決まれば早速、と野宮は自分の鞄から一冊のノートを出してくる。
「これ、なんて呼ぶことにします? 連絡帳、と呼ぶのも味気なくないですか」
ぱらぱらと頁を繰りながら呟いた原島に、
「《青春の一頁》はどうだ!」
「そらないわ! 青春はさておき、メモリアルだけは勘弁してェや!」
腹を抱えて笑い転げる桝谷に、渾身の出来映えだったのに! と野宮は憤る。
「じゃ、他の意見さ出してくれし」
「一頁以外ならなんでもええわ!」
笑いすぎて腹痛い、と桝谷は涙の滲んだ目元を拭う。
「謳風寮をもじって、桜楓帖というのはどうでしょう。……単純がすぎるでしょうか」
混沌たる様相を呈してきた空間に、救いの神のごとき声がひとつ。
「それや。それええな!」
桝谷はぽんと手を打つと、自信なさげに発言した平野の肩をばしばしと遠慮なく叩いた。平野は穏やかに目を伏せつつも、桝谷の手をそっとどかす――どうやら痛かったらしい。
「決まりや。咲き初めの桜みたいな頃に出会うて、人生の楓の頃に昔のこと思い出そう――そないな意味を込めて」
題字は俺が書いたる。野宮がいいともだめとも言う前に桝谷は筆をとると、ノートの表紙にさらさらと流れるような筆つきで《桜楓帖》と書いた。見かけによらず流麗な字を書く。
「今の瑞生の言葉、早速書き留めてもいいか?」
次筆貸してくれ! と騒ぐ野宮に、桝谷はぴしゃりと言い放つ。
「小説家なるんなら自分の言葉で書きィ! ……まあ、ちょっとええこと言うた自覚あったし、使うてもええよ」
いつか自叙伝書くときには、いっちゃんええとこで使うてな。照れ隠しに頬を掻きつつ呟いた桝谷だったが、野宮はもう聞いていない。『帖』の字にメモリアルってルビふってもいいか? などと、どこまで本気かよくわからない発言を繰り出している。
ここで上手くやっていけそうか? 本江は自分自身にそっと問うてみる。
まだわからない。でもまあ、なんとかやっていくんじゃないかな。どうしようもないことなんて、きっとない――少なくとも、ここにいるのは僕ひとりではないのだから。擦れ違っても、言葉足らずでも、心ゆくまでぶつけ合える。何故なら僕達は今、まさに青春時代の真っ只中だからだ。
《人生の楓の頃に昔のことを思い出そう》――明日の生活を考えるよりも、今夜の食堂の席取りに忙しい僕達が語るには、あまりに遠く形すら掴めない未来の話。早く大人になりたいような、永遠に咲き初めの季節が続けばいいと願っているような、曖昧で淡い日々はまだ始まったばかりだ。
遠い未来で、僕達はきっとまた同じように笑い合うだろう。
これは僕らの、二度とは繰り返せない青春の日々の記録だ。
