本江は頭を抱えていた。
ひと月ではっきりわかった。たった三十日かそこらで何を悟った気になっているのか、と入学直後の僕なら笑い飛ばしただろう。しかしこればかりは事実なのだから仕方がない。
謳風寮二◯六號室は、問題だらけだ。
共同生活に慣れていないのは皆同じだ。だからこそ譲り合ったり気を遣ったりしなければならないのに、この部屋の面々ときたら正直どうしようもない。いや、どうしようもないというのはさすがに言いすぎか。各々の性格が悪いのではなく、生活の相性が壊滅的に悪いのだ。
まず、桝谷。彼はとにかくやる気がない。本当にやる気がないのか、やる気がないふりをしているのかまではわからなかったが、何に対しても身が入っていないのは確かだろう。皆で何かしよう、こうしてみよう、とない知恵絞って提案しても、必ず最初に口にするのは『ああ、邪魔くさ』。邪魔くさい、が大阪弁で面倒くさいという意味だと気づくまでは、言い出した自分が邪魔者だと言われているようで無性に腹が立ったものだった。面倒だという意味だと知ってからも、都度そう言わなければ動き出せないのかと言ってやりたくなる。やはり腹立たしいことに変わりはないのだった。
彼はいつもへらへらと軽薄に笑い、真意を見せず、同級の者からは近寄り難い存在として遠巻きにされていた。かと思いきや上級生にはやけに愛想良く近づき、親交を深めようとしているから、何がしたいのかよくわからない。べらべらと調子よく喋ったのは入学してから一週間くらいで、慣れきってからは寮の部屋でひとり、朽ちかけてボロボロの小説本を片手に寝台にひっくり返って四六時中煙草をふかしていた。
次に、原島。彼はいつも同室の者に何も言わずにどこかに出かけてしまう。授業をサボるくらいならどうせ近くで油を売っているのだろうと大して気にも留めないが、寮の門限を破って夜遊び、何食わぬ顔で朝帰りするとなれば話は別だ。初対面の生真面目な印象はどこへやら、すっかり騙された心地だった。元々東京の人間だから、遊ぶ場所を知っているのだろう。しかし勝手に行かれては、点呼の時間に人数が揃わず上級生に鉄槌を食らうのは残った僕達なのだ。納得がいかない。
彼は教師や上級生の前では従順な学生を演じていたが、目の届きにくい寮では好き放題にしていた。元々要領がいいのだろうが、こいつらならば何も言ってこないだろうと見下されているようでなんとも気分が悪かった。
それから、野宮。彼は真面目で真っ直ぐでひたすらに明るい。しかし、やることなすことがあまりに直球すぎた。全ては彼の余りある好奇心から出た純粋な言動なのだが、それが他人を傷つけたり怒らせたりする可能性までは思考が回らないらしい。
さらに、これは彼自身は何ひとつ悪くないのだが、例のきつすぎる訛りは良くも悪くも恐ろしく目立っていた。たった一言発するだけでも否応無く目立つ上に、持ち前の無邪気さで上級生にも明け透けにものを言うせいで、三日に一度は私怨を募らせた誰かが今回ばかりは許せないと拳を振り上げて部屋に飛び込んでくる始末だった。
本江は困っていた。心底困っていた。上手くやっていける自信などひと月で塵になっていた。
ここは師範学校だ、曲がりなりにも教師を志す人間が集う場所だ。もっとこう、落ち着いて穏やかな学生達が良好な人間関係を築いていくものだと思っていた。しかし蓋を開けてみればさながら動物園、高等小学校を出たての十五、六の少年がぎっしり詰め込まれた無法地帯。期待が儚く崩れ去っていく音が聞こえるようだった。
もうひとり、この現状に頭を悩ませているだろう人がいた。それが本江の唯一かつ最大の救いだった。
平野啓司。入学式で総代を務めたということは公費生、その中でも今年の試験で一番良い成績を修めて入学したことになる。実際彼は優秀だった。地頭が良いというよりは、少しずつ日々の努力を積み重ねていくことを知っている人間のように思えた。勉強ばかりができる人間特有の目立ちたがるようなところが平野にはなかった。同室で唯一の常識人が彼であることに、本江は精神的に救われていた。
平野が自分と同じく現状に困惑しているであろうということは、彼の寮での振る舞いを見ていればなんとなく察せられることだった。平野は点呼時間になるまで部屋には帰ってこない。訊けば、大抵授業の終わった教室でそのまま自習を続けるか、図書室に行くという。
いつも静かで、誰とも進んで話そうとはしない。話しかけられれば好意的に応えるが、彼の方から踏み出すことはほとんどないようだった。交流が苦手というよりは、何か明確な意思をもって周囲に対して一線を引いているように思えた。桝谷の気まぐれとも、原島の無関心な拒絶とも違う、もっと存在の根幹に近いところで形成された距離感。確かにそこにいるのにふとした瞬間に存在を忘れてしまいそうになる、曖昧で稀薄な気配の正体は掴めなかったが、少なくとも不快感は覚えなかった。
金曜の三限、教育学の授業は半ばを過ぎようとしている。ひたすらに板書を書き写しながらも、本江の意識は今宵の火鉢の残灰捨て当番にしか向いていなかった。
寮の共有部分の清掃は一年生の仕事だ。校則によると寮の清掃は寮生が分担して行うこととされていて、つまり全寮制のここでは全生徒を指すことになるのだが、実際のところは一年生だけに押し付けられている。寮則という、時として校則よりも強制力を持つ不文の規律が存在するからだ。開校時から連綿と受け継がれてきた理不尽な上下関係の結晶とも言うべきそれに、入学してひと月そこらの一年生が太刀打ちできるはずもない。
本江はそっとため息をついた。理に適わない寮則に対してではなく、理不尽なあれこれを上手く躱してやり過ごす要領の良さを持たない自分に対しての落胆だった。
原島は授業が終わった足でそのまま学校を抜け出して今宵は帰ってこないだろうし、桝谷は例の「ああ、邪魔くさ」を口にするばかりで碌に働きやしないだろう。そうして気がつけば文句を言わない人間だけが静かに汗水流して働く羽目になる。
《教育の究極理想たるものは何か。それ即ち人格の完成である。つまり、人格の完成を主目的として、各々の向上、進展を指導する活動こそが教育であると定義づけられるわけだ。人格の進展は人格的活動を以ってのみ成し得る。一に自己活動、二に自由活動、三に創造的活動で、四に個性活動。これらの人格的活動の均衡を保ち、然るべき年齢に然るべき助言を与え指導することが教育者の責務であり――》
馴染まない講義が耳から入って体をそのまま通り抜けていく。そもそも人間として未熟な少年らに教育論を説いたところで、どこまで響くのか――自らもまた未熟な少年のひとりであることをぼんやりと忘れたまま、本江は他人事のように思った。
この中に師範学校を、将来教師になることを一心に志して進学してきた人間はどれくらいいるのだろう。かつては師範学校を卒業しないと進学できなかった高等師範学校に、中学校を卒業しても上がれるようになってはや数年。今や師範学校は経済状況その他様々な理由で中学に行くことができず、高等小学校までで学問を終えるはずだった人間の最後の救済的進学先というよりほかになくなっていた。
明確な意志を持たず進学してきたであろう大多数を卑下することなどできない。する気もない。何故なら本江もまた、やむなくこの東京の師範学校という手段を選んだうちのひとりであるからだった。
くふ、コほ、と小さな咳が聞こえる。静かな教室に時折さざ波のように落ちるそれは、右隣の席に座る平野が零すものだ。
「大丈夫?」
囁き声で問いかける。平野はこちらを見て小さく頷いた。
風邪でもひいたのか、彼は少し前からあまり調子が良くないように見えた。無理もない。故郷を離れて慣れない寮生活、おまけに同室の人間が揃って協調性皆無とくれば、体調だって崩すだろう。
ありがとう、と口の動きだけで伝える平野に、どういたしましてと同じやり方で返す。平野は微かに笑った。光の加減で濡羽色に見える瞳に、すっと柔らかな影が落ちる。あ、笑ってくれた、と思ったのもつかの間、彼の真っ直ぐな視線は黒板へと戻っていた。
そうか、僕はもっと平野と話をしてみたいと思っているのか。今更のように腑に落ちた。
「昼、一緒にどうかな」
午前の授業の終わりを告げる鐘が鳴った。どこへ行くでもなく自分の席でひとり昼を食べようとしていた平野に、本江は控えめに声をかけた。
「どうぞ。……そちらにいっても、いいですか」
平野は本江の机を指す。
「勿論いいけど、ここは窓際だから少し寒いよ」
四月末とはいえ、風の抜ける窓際の席はまだ肌寒い。押し殺すような咳をしていた彼を思うと、あまり勧められない気がした。
「ごめんなさい、嫌ならいいんです」
「いやその、風邪ひいてるのかなって、思って……」
平野は目を伏せると、すまなそうに首を横に振った。
「風邪じゃないんです。少し、環境の変化に体調崩してるみたいで。空気が抜けるから窓際の方がありがたくて……」
「そういうことなら、どうぞ。余計なお世話だったね」
前の席の生徒は終業の鐘と同時にどこかへ行ってしまった。勝手に使っても構わないだろうと、椅子を後ろに向ける。
「寮食だけじゃ少なくない?」
公費生には無料で弁当が支給される。私費生は有料かつ申請を出さないと受け取れないが、自炊などほとんどしたことのない十代の男子学生にとって食事を用意してもらえるのはありがたいことだったから、結局は所属を問わずほぼ全ての生徒が昼はこの弁当で済ませていた。学生寮の片隅に炊事場があり、そこで作られているので寮食と呼ばれている。
弁当といってもおむすび一つにおかずが二種類、豪華なときでもそこに小さな甘味が添えられる程度のものだ。食べ盛りの学生には少し、いやかなり物足りない。
「いつも昼はあまり食べないので」
線の細い印象に違わず、平野はこれで充分だという。足りないなら少しあげようかと言われ、本江は途端に恥ずかしくなった。
「ごめん、前と同じことを訊いてしまうけれど……平野君は出身、どこだっけ」
入学してから今日まで目新しいことが多すぎて、同室の彼のことさえあやふやになってしまっている現状を反省しながら、控えめに尋ねる。
「長野の北の方です。本江さんは北陸でしたっけ」
「本江さんはやめてよ、同級なんだしさ。出身は富山。僕達、案外近くから来たってことだね」
「そうですね」
淡雪を思わせる儚げな風情に、どう会話を続けていいか言葉に詰まった。桝谷や野宮のように、ぽんぽんと際限なく会話を繋げていける才能は生憎持っていない。不可視の一線を越えられぬまま、本江はなんとか距離感を保つ糸口を探して意味もなく窓の外に視線を向けてみたりした。
「雪のない四月って、なんだか別の国みたいだと思わない? 花が咲くにはまだ早い季節だとばかり思ってきたのに、ふと見ればあんなに桜が咲いてる」
入学式の頃に隆盛を誇った花は、今やすっかり葉桜となって風にそよいでいる。
「本当に……故郷ではちょうど、今が見頃といったところでしょうか」
平野は眩しそうに外を仰いだ。日に透ける白い肌に窓枠の影が落ちて、淡く熱を放つように揺らぐ。
「教師になりたくて、ここへ?」
春風に背中を押されて、一番訊きたかった言葉がするりと出た。口に出してしまってから、答えたくないことだったらどうしようと慌てた。
「勿論……と言えたならよかったのですが。自分でもまだよくわからなくて」
平野は曖昧に目を伏せた。壊れ物みたいな華奢な指が緩く組まれて、はらりと解ける。
「じゃあ、どうして」
主席入学の彼の意外な答えに、本江は驚いていた。
「自分の心にあまり自信が持てないのですが……ただ、知らないものを見たくて、ここにきたんです」
本江さ……本江君は、どうしてここに進学しようと思ったのですか。平野の問いに、本江は答えることができなかった。知らないものを見たいという純粋な感情ひとつすら抱けず、言葉にもできなかった自分が、あまりに情けなくてひたすらに悔しかった。
思い通りにならない日々に募る憤りを周囲の人間のせいにしてやれやれとため息ばかりついて、悟ったつもりの僕はなんて矮小なのだろう。
四月といえど夜はかなり冷え込むので、寮の各部屋には火鉢を入れている。元々迎賓館として建てられたものをそのまま学舎として使っている教室棟には近代的なストーブや電気設備があるのだが、学校として利用するにあたり敷地内に突貫工事で作られた寮にそんな贅沢なものは存在しない。夜な夜などこからか隙間風が吹いてきて、眠りに落ちる間際の睫毛を冷やすのだった。
寝静まった部屋に、昼間教室で聞いたときよりも苦しげな咳音が響いていた。毛布で抑え込んでいるのだろうか、同室の物音にしてはささやかに感じるそれは、ドアに一番近い寝台から聞こえてくる。本江はまだ起きてはいたが、周りの皆が寝静まってしまった手前大っぴらに声をあげて心配するのも憚られて、寝台に横になったまま聞き耳だけを立てていた。
「あの……少し、窓を開けても、いいですか……?」
夜闇に溶け入る掠れ声に、返事を寄越す者はいなかった。隣の寝台でぐっすりと眠っている原島は、肩まで毛布に埋もれたまま微動だにしない。
潜めた気配が耳を掠める。きい、と小さな音が聞こえて、冷たい春の夜風を肩に感じた。消灯前に桝谷がふかしていた煙草のにおいが薄くなって、窓を開けたのだとわかった。続いて椅子を引く音が聞こえる。好奇心に負けてそっと薄目を開けると、窓際の自習机に腰掛ける平野の背中がぼんやりと見えた。
平野は何度か弱い咳を繰り返すと、そのまま前に崩れるように突っ伏した。浴衣の胸元を掻き合わせて握り込み、長距離を走った直後のような切れ切れの呼吸に肩を喘がせている。ぜッ、ぜッ、とざらつく咳と、彼が身じろぐ度に微かに鳴る、古い椅子の軋む音。他の者が起きている気配はない。気づいているのは、恐らく本江だけだった。もしかして――その症状にどこか心当たりがあるような気がしていた。
やがて平野は片腕を伸ばして、細く開けていた窓を閉めた。しばらく呼吸を整えるように背を丸めて息を詰めていたが、堪えきれぬ鋭い咳が夜の静寂を裂いて落ちる。何度か胸に響く咳を繰り返した後に、平野はふらりと立ち上がるとそのまま部屋から出ていってしまった。彼の消えた部屋に穏やかな静寂が戻った。
本江は迷っていた。平野は助けを求めているようには見えなかったから、大袈裟に騒ぎ立てるのはやはり気が引けた。しかしこのまま寝たふりを決め込むというのも、あまりに薄情ではなかろうか。
もしもあの苦しげな咳が自分の想像した通りの症状だったとしたら、何か力になれるかもしれない――逡巡の末に、意を決して本江は冷たい床に足を下ろした。
月明かりに冷やされた階段を軋ませないように慎重に下り、灯りひとつない廊下の壁に指先を沿わせながら奥の食堂に向かう。階段を降りた先には玄関と食堂と宿直室しかない。体調を崩したときに真っ直ぐ宿直室の寮監に助けを求められるような人間ならば、それより先に同室の者を頼るはずだから、彼の行き先は食堂以外にはあり得ないと思った。
夜更けの食堂の隅にひとつだけ灯された薄暗い電球。端の席で、孤独な背が痛々しく震えていた。
やはり部屋では迷惑をかけないよう相当に押し殺していたらしい。濁った音をたてて吐き出される咳と、木枯らしのような細い呼吸。咳がきつくて碌に呼吸ができていないのか、はぁはぁと荒い息遣いに、首を絞められているかのような掠れた呻きが混ざる。
「平野君、ごめん。やっぱり気づかないふりはできなくて。……大丈夫、ではないよね」
呼吸苦とは別の驚きに平野の肩が跳ねる。なるべく小さな声でそっと呼びかけたつもりではあったが、彼もまさか気づいて追ってくる人がいるとは思っていなかったのだろう。振り返った彼の表情は暗くてよく見えなかったが、警戒して身を固くしたのはわかった。
「違ったら悪いんだけど……もしかして、喘息?」
平野は顔を上げた。苦しさに潤んだ目がはっとしたようにこちらを見る。
「どう、して」
声が震えていたのは、発作による呼吸苦のせいも充分にあっただろう。それでもそこに垣間見た一瞬の絶望に、彼の触れられたくないところを無理に暴いたような後ろ暗さを覚えた。
「僕の姉さんが喘息持ちで。幼い頃からそれなりに発作は見慣れてきたというか……」
ひゅうひゅうと空気の漏れるような呼吸音を聞いたときから、なんとなくそんな気がしていた。よかった、間違っていなかった。いや、同輩が苦しんでいるのによかったはおかしいか。とにもかくにも何もできずおろおろとするだけにはならなそうだと、つかの間の安心感にほっと息が落ちる。
背中、擦ってもいいかな。恐る恐る尋ねると、平野は観念したように小さく頷いた。
「横にならない方がいいって聞いているんだけど……合ってる? あと温めた手ぬぐいを胸元にあてると、姉さんは楽になるとも言ってた」
初めて触れる背中は傍目よりずっと細かった。薄い浴衣のすぐ下、皮膚の内側を病が這い回る音がする。恐々と手を動かすと、びくりと肩甲骨のあたりが強張った。
「いいよ、我慢しなくて。迷惑なんかじゃないから」
平野は胸に響く重い咳を立て続けに吐き出し、咳き込みすぎて何度か嘔吐き、やがてぐったりと上半身をテーブルに預けて力を抜いた。目眩でも起こしたのかと慌てたが、徐々に呼吸から軋みが消えていくのを見るに、少しはましになってきたらしい。
彼の腕の先に白い薬包紙の屑がひとつ、崩れた花のように転がっている。
「薬、普段から飲んでるの」
「発作の、起きたとき、だけ……」
彼の指先は微かに震えていた。そういえば姉も強い薬の後は手が震えて困ると零していたなと、記憶を手繰るようにして思い出す。
「実家の近くに薬屋が多いんだけど……ほら、富山の売薬って、言うでしょう。発作止め以外にも咳予防の薬を売ってるところがあって、姉さんはそれを飲むようになってから随分と楽になったみたいだった。平野君さえよければだけど、今度手紙で訊いてみようか」
できることがあるのなら、力になってやりたかった。遠く生まれ故郷を離れて暮らす者同士、些細なきっかけでも心を通わせ合えたなら、思い通りにならない日々も少しは変わるかもしれない。
「いいの、ですか」
「勿論。困ったときは助け合わないとね」
誰も寄りつけなかった不可視の薄絹を知らずのうちに越えたような心地がして、華奢な背にもう一度触れた。手のひらに感じる乱れた呼吸は、落ち着いた普段の印象からは思いもよらぬほど頼りない。
「ここは冷えるから、戻った方がいいよ」
平野は小さく頷く。ゆるゆると怠そうに上体を起こし、咳を呼び戻さないように慎重に息を吐いた。
「もう少し、ここにいます」
「まだ動くのはきつい?」
彼は無言でかぶりをふった。上手く言葉にできないもどかしさを無理矢理飲み下したような間があった。
「どうして地元じゃなくて、東京にきたの?」
あまり病のことは訊かれたくないのだろう。そう感じて話題を変えた。
「語るほど、深い理由は、なく、って……ッ、げほ、コほっ…!」
濡羽色の瞳が本江を映す。平野は口を開いたが、不意にぶり返した咳の発作に阻まれて言葉は続かなかった。
「ごめん、まだ苦しかったよね。無理しないで」
再び背に手を伸ばしたが、もう大丈夫だとやんわり退けられてしまった。一度は越えたと思った境界線の外側に逆戻りだ。
「……僕は成り行きで東京に来ることになったんだ。本当は地元の師範学校に行きたかったんだけどね」
静寂に耐えかねて口を開いてから、本江はふと思った。平野の側にいると自然と言葉が出るのは、どうやら気のせいではないらしい。
「何がしたいとか、将来どうなりたいとか、正直まだよくわからない。無責任で無計画で向こう見ずだなと自分でも思う。入学してひと月経って、こんなところ辞めてやるとは思わないけれど、心からこの場所にいることを喜べないのもまた確かでさ。……ごめん、何言ってるのかさっぱりだよね。具合悪いのに、返事に困るような話に付き合わせてごめん」
口を開いた勢いに任せてまとまらない言葉を吐き出す間にも、平野はただ黙って視線だけを向けていた。発作の残滓を滲ませる瞳の中には否定も肯定もなかった。単純に会話ができる体調ではなかったというだけかもしれない。しかし本江には彼の沈黙が必要だった。行くあてを失った言葉を穏やかな両の瞳で受け止めてくれたように感じた。それが何よりありがたかった。
「もう少しだけ、とりとめのないことを話してもいいかな」
平野はひとつ瞬きをするとゆっくり頷いた。
「ではもう少しだけ、その話を聞いていてもいいですか」
皆は自分自身のことくらいとっくにわかっていて、「わかっている」という自信に満ち溢れていると思っていた。いまだに自分のことさえ掴みきれない僕は、そういう人間達を羨ましさ半分僻み半分で眺めるしかなかった。
正解を教えてくれる存在についていけばいいと思っていた。しかし教師を志す以上、いつかは正解を教える立場にならなくてはいけない。正しさとは何かを伝えられる人間にならなくてはいけない。僕は焦っていた。こいつはわかっている、こいつはわかっていないのに知っているふりをして馬鹿みたいに振舞っている。そんな風に品定めをすることで自分の足場を確立させてきたのだ。
わかる、わからないとは、なんだろうか。何をもって理解しているかそうでないかを見極めるのだろうか。座学の試験と違って明確な正誤を持たないものから答えを引き摺り出すことに、そこまで意味があるのだろうか。
僕の話を聞いていてもいいかと問うた平野の瞳の奥に、また答えを求めようとしていた。しかしそこに求めるものはないのだと、ふっと降りた天啓のように理解した。
本江は口を開いた。溢れるのはやはり、取るに足りないことばかり。音となって落ちていくのを他人事のように眺めながらも、本江の頭にはあるひとつの考えが浮かんでいた。
