十三 ひとひら - 1/3

四月拾二日
一日中雨降り続く
看護婦が廊下を駆ける足音で容体の悪化を知る。雨音が邪魔で咳に気がつけず、というのは弁疏べんそである。こういう時の為に看護婦がいるとはいえ、知らぬ間に物事が流転していくことに恐怖を覚える
少量の喀血あり、処置の間に不足した薬を買いに出る。春なれど夜雨身に
夜半の出来事を書き記すうちに昼のことをすっかり忘れてしまった

拾三日
長雨続く
直次と夕食をとる。何を話すでもなく口数が減っていく。話すことがないわけではない。どう言葉にしていいかわからない事柄が多すぎるだけだ
先生のことを話さないようにしている、既にその行動に予感めいた意識が灯っていることを考えないようにしている

拾四日
呼吸音が聞こえることと聞こえないこと、どちらが怖いだろうか

拾五日
つかの間の春らしい晴天
薬の時間だけ目を覚ますも、言葉を交わすことはできずすぐに眠る。体温、脈ともに乱れなし。意識は常に遠く霞の向こうにあるようだ
最近ここに書き記す事柄が何もない。脈博表の備考に書き記しておくようなことばかりつらつらと書き並べる日々。先生が聞いたら笑うだろうか、それとも悲しむだろうか。彼の見る世界はいつだってもっと鮮やかであろうに
明日からは先生に代わって季節の移りゆく様でも記しておこうか

拾六日
雨止まず。催花雨だろうか
もう少し暖かくなれば、この長雨が止めば先生の身体も少しは楽になるだろう
先生に春を見せてやりたい。桜が咲いたら一番に伝えてやりたい。たとえ見ることが叶わな■■■■■■■(文字は荒く描き潰され判読できない)

拾七日

 柔らかな午後の光が満ちている。雪解けの雨も過ぎ去って、久々に春らしい穏やかな夕暮れだった。
 少し開けたガラス戸から入る風に新緑の匂いが溶け込んでいる。それは昼も夜もなくなった病床にふとそよぐからこそ、外で感じるよりも余程繊細で瑞々しいように思えるのかもしれない。賑やかな声や眩しい陽の光から隔てられ、全てのものの輪郭がぼんやりと混ざりあう畳敷きの一室では、色彩や温度の少しの移り変わりも鮮やかに際立って思えるのだった。
 空の一切を溶かしゆくようだった雨が止んで、暖かな晴れ間が覗いたことに先生は気づいているだろうか。中庭の雪が全て溶けきって新しい緑が芽吹き始めているのを目にしただろうか。
 ささやかな変化の兆しを、いつも誰よりも早く見つける人だった。誰も気に留めないような小さく儚いものをその繊細な指先で掬い上げて、そっと目の前にかざしてみせてくれる人だった。存在を覆い隠す邪魔なものを払いのけるのではなく、その場にしゃがんで地面に手をつき覗きこんでみる柔らかさを持っていた。
 今はもう、目を開いていても何も映していないときの方が多かった。先生は鎮痛剤の向こう、夢とうつつが曖昧に混ざり合う霞の先に幽閉されている。そこに苦痛はないが、同時に意識や思考もほとんど存在しないのだと、池沢は揺れる感情を医師の冷静さに隠して告げた。
 霧が引いたら、もうそこには何もない。残るのは指先に絡まるひんやりとした湿度だけ――それもやがて形を失うだろう。

 ふと背後に身じろぐ気配を感じた。振り返ると思った通り、どこか焦点の定まりきらない朧な視線がこちらを見上げていた。
「悪い、起こしたか」
 声に反応した瞼が動いて、細かな光の粒を纏った睫毛が蝶の羽ばたきのように揺れる。
「いいえ……起きて、いましたから」
 二、三度瞬きを繰り返す視線が次第にはっきりとしてくる。先生は口元に微かな笑みを寄せた。傍にいるのが藤倉だと、今は理解できているらしい。
「何かしてほしいことはあるか。何か食べたいとか、体を拭いてほしいだとか」
 訊きたいことは山ほどあった。彼にしていることが果たして本当に彼のためになっているのか、漠然とした不安は日を追うごとに膨らんでいった。言葉がなければ、確かめることができなければ耐えられないのは自分の方だった。
 先生は緩やかに首を振った。大丈夫、わかっています――そう言ったように思えた。
 ほとんど言葉を紡がなくなった先生は、言葉の代わりに瞳でもって声以上に深く意思を伝えてくる。言葉よりも真っ直ぐに、胸の奥深くに灯し火を落とす。
 横になったまま先生は片手をこちらに伸ばす。身を起こしてほしい――意味を理解するより先に体が動く。藤倉は隣に膝をつき、伸ばされた細い手首をしっかりと握った。
 引き起こしながらもう片方の腕を背に回すと、彼もそれに応えるように空いた腕を寄せた首に絡めてくる。間を計るのに声はいらない。藤倉が体重を移動させる瞬間にだけ、首筋に触れた肘の内側に僅か力がこめられる。片腕で抱きこむように背を支え、毛布を少し高めに整え直し、起こすのと反対の動きでそっと下ろす。背に回した腕を引き抜く刹那、先生の指先は藤倉の乱れた着物の合わせを直している。
 顔を横に背け、先生はけほ、セほ、と弱く咳いたが、やがてふっと表情を和らげた。
「苦しくないか」
 さり気なく触れた腕の脈は常より少し早く弱い。これでは身を起こしただけの動きでも辛かろうと不安になったが、先生は大丈夫と軽く頷いてみせた。
「雨、」
 止んだのですね、と口元が動く。布団の側に置いた、直射を遮る衝立の向こうから透ける光は黄金色をしていた。
「春の、匂い……」
 中庭の露に濡れた草葉がここからでもよく見えた。雪解けを待っていたかのように一気に芽吹いた若い葉は日に日に背を伸ばし、冬枯れの庭に彩りを増やしながら優しい風を部屋へと届けてくれる。
「外に、出ても……?」
「少しだけな」
 縁側を外と言うようになったのはいつからだろう。何かに追われるように二人、冬と春とのあわいの夜に抜け出したあの日を境に、先生の時間は止まってしまった。
 先生はもう自力で立ち上がることができない。幾度も血を流し壊れきった肺腑や疲弊した心臓には、体を真っ直ぐ支えるだけの酸素を全身に循環させる力は残されていなかった。元より細かった手足は今や枯れ枝のように軽くなり、生活の一切に人の手が必要不可欠となった。
 膝に掛けた毛布を一旦どけ、緩く皺の寄った着物ごと包みこむように膝裏に腕を回す。一息に抱き上げると、先生はひゅ、と短く息を吸いこんで身を固くした。
 縁側まできて、先に座布団を用意しておかなかった不手際に気がついた。悪い、と一言詫びつつ柱に背を預ける恰好で降ろしてやって、すぐに室内にとって返す。座布団と毛布、枕元に畳んで置かれたままの羽織を抱えて戻ると、先生は柱に寄りかかり座った姿勢から微動だにせず、日に日に春めく庭をふわりと眺めていた。
「髪、随分伸びたな。俺でよければ切ってやろうか」
 風に吹かれて乱れた横髪が青白い鼻梁に影を落としている。柔らかな髪はいつからか伸び放題で、先が羽織の襟に隠れるくらいの長さにはなっていた。
「いいえ……このままで、いいです」
 先生は春風に遊ばれる横髪を掬い上げ、指先にくるくると巻きつけて弄ぶ。しかししばらくすると、はたと何かを思ったのか動きが止まった。
「あ、やはり、切っていただけますか……? もっと、暖かくなったら」
 いっそ、このくらいまで。大胆にも耳の上を指差して悪戯っぽく笑う先生に、藤倉は面食らった。
「今でもいいんだが」
「桜を見にいくときに、見苦しくないようにと、思って……」
 あの日に、約束しましたから。先生は俄かに華やいで言う。
「わかった。花見の日が決まったら、その前に切ろう」
「お願いしますね」
 口元に笑みを浮かべたまま、先生は目を閉じた。まるでその目裏にはもう満開の花が咲いているかのようだった。
「願わくば、花の上にて」
 ふと先生は歌うように呟いた。目を開けて、その続きを知っていますか、と視線だけで尋ねる。
「……上? もとじゃ、ないのか」
 思わず答えてしまったが、自然と声は低くなった。当然知ってはいたが続きなど口に出したくもなかった。なぜならその和歌は――
「花の盛りにと、願うなら……一番よく見えるところに、いきたいのです。花の上なら花だけでなく、子ども達の姿も見えますし」
 先生は穏やかに笑う。晴れ晴れとした、曇りのない幸福がそこにあった。
 そうか。先生は今、幸せなのか。どこかわだかまっていた心がすとんと居場所を見つけたような心地がした。強がりでも苦痛を押し隠すためでもなく、心から満ち足りていると、彼は今伝えようとしている。伝えようと努力をせずとも、真っ直ぐに届いている。
「俺も上がいい。上なら、きっと手が届く」
「貴方がそこに手を伸ばすのは、どうか……ずっと先の未来であってください」
「……ああ。わかった」
 満ち足りていると、同じ気持ちでいると言葉で表せば、きっとその瞬間にそれは陳腐なものになってしまう。だから代わりに、西日に向かって藤倉は手を伸ばした。先生は眩しそうに目を細めると、白く細い手のひらを柔らかく重ねた。
 手を取り合うのではなく、後ろからそっと重ねる。それこそが、二人がこれまで過ごしてきた時間の形だった。

「藤倉さん」
 ちょっとそこの物を取ってくださいと声をかけるように、先生は呼びかける。
「通りの桜が咲いたか……見てきていただけませんか」
 最後に直次に訊いたのはいつだったか、よく覚えていなくて。もしかしてもう咲いてしまいましたかと尋ねる先生に、藤倉はいいやまだだ、と首を振った。
「昨日見たときはまだだった。……あの桜、もう随分な古木だろう」
「ええ。少なくとも数百年は経つそうですよ……? 最近は弱ってきてしまったのか、年々花の数が減って……。それでもまだ、毎年楽しませてくれる」
 まるで先生のようだなと思った。他より弱くても、数は少なくても、毎年花を咲かせて誰かの目を楽しませる。そこに在ることが何よりの支えになっている。ずっとそこに居られるように、自然と手を差し伸べたくなる。
「一緒に見にいくか。玄関先まで連れていくくらい、造作もないことだが」
 この春最初の桜を目にする瞬間を共に迎えたい。そう素直に伝えるのは照れくさく、少し言葉を濁した。
「咲いていたら、教えてください……私はここにいます」
 先生は少し疲れたらしかった。褪せた笑みを浮かべて、いってらっしゃい、と小さく手を振った。
 藤倉が立ち上がっても、先生は名残惜しそうに視線だけいつまでもこちらに向けていた。
「藤倉さん」
 先生が己を呼ぶ声はどこか甘く涼やかで、時折胸の奥を浅く引っ掻くような痛みを落とす。
「ありがとう、ございます」
 先生以外の誰に呼ばれても、こんなに心が揺れることはない。親に呼ばれるほどは近すぎず、友が戯れに呼ぶ声より深く馴染む。恋人に名を呼ばれた経験はないが、きっとそれとも違うのだろう。
「礼を言われるほどのことじゃないさ」
 どうして先生のことをこんなにも特別に思うのか、いまだによくわからなかった。この気持ちは偶然が生んだ幸福な錯覚なのかもしれない。出会うべくして出会うなどということはなく、空虚を抱えた人間同士が都合よく互いの穴を埋め合って満足しただけかもしれない。
 もしもあの日出会わなかったら――そんな仮説に意味はない。それが必然でも偶然でも、あの日藤倉は古びた医院の扉を叩き、先生はそれに応えた。発作を起こし倒れた華奢な身体を受け止め、彼が教師であると知り、名を尋ねた。それが全てだ。
「すぐ戻るから、待ってろ」
「ええ。待っています」
 友でも家族でも、恋人でもない。藤倉にとって彼はただ、先生であった。
 先生にとって、自分はどんな存在なのだろう。願わくば、藤倉柳三というただの一人の男であればいい。