九 風花の思い

 引き戸を勢いよく開ける音がする。続いてがたん、どたた、と物が落ちたり転がったりする音と、ふわふわした笑い声。外から吹き込んできた風に磨りガラスの明かり窓がちりりと揺れて、先生は読んでいた本から目を上げた。
「せんせい、ただいま!」
 たんッと小気味よく襖が開いて、頬を指先を真っ赤にした子ども達が雪崩れこんでくる。先生、かまくら作りました! はしゃいだ着物の裾や濡れた髪からばらばらと雪の欠片が落ちて、藤倉はやれやれといった調子でそれを見ていた。
「先生も一緒にかまくら入りましょ。萱を敷いて火鉢を持っていけば、きっとあったかいです」
 本を置いた先生の手を、早く早くと催促するようにとる子がいた。指先まで真っ赤になった手の冷たさにびくりと震えた先生を見て、きゃっきゃと楽しげに笑う。
「そろそろ日暮れも近いし、今日はだいぶ冷えているだろう」
 雪遊びはまた今度にと言いかけた藤倉を、先生は目尻を下げた笑みでやんわりと封じた。遠回しな気遣いも言外の制止も理解していると目が語っていた。
 先生はゆっくりと窶れていくようだった。濡羽色の瞳がいっそう黒目がちに透き通って見えるようになったのは痩せたせいだ。会話の合間に咳き入ることが増え、月の半分は熱を出すか咳が治まらないかで教室を閉めるようになっていた。子ども達の前では咳をしないよう堪えているのか、全員帰った途端に力が抜けたように机に突っ伏してしまうこともしばしばで、ここ最近の教室は勉強を教えるところというよりは暗くなるまでの安全な遊び場といった様相になっていた。
「ね、せんせ、抱っこしてー」
 そういった変化を一番敏感に感じ取ったのはやはり子ども達、特にまだ幼い子だろう。うまく言葉にできない寂しさのような感情を、子ども達は以前よりも甘えることで表していた。
「抱っこ、ですか? ううん……正雄さんはもう随分大きくなりましたからね。私にはもう難しいかもしれません」
「でも、父ちゃんは肩車もしてくれるよ! まだまだ平気だ、軽々いけるぞって!」
 じゃれついて膝に乗ろうとした正雄をやんわりと押しとどめて前に座らせ、先生は雪遊びでもつれた後ろ髪を指で梳いてやっている。口元に穏やかな微笑を浮かべているが、目はどこか寂しげだった。
「正雄さんのお父さんは頼もしいですね。……私がやって、怪我をさせては大変ですから」
 けちんぼ、と口を尖らせる正雄に、先生はすみませんと言った。柔らかな髪に埋められた指が一瞬止まり、それはすぐに動き出したが幾分か精彩を欠いていた。
「肩車なら俺がしてやろうか?」
 え、と正雄が口を半開きにして固まる。藤倉はにやりと目を細めてみせた。
「この間はぎりぎり天井には届かなかったからな。今度は少し跳ねてみようか?」
「ええ、やだ! クマせんせいの肩車は高すぎて怖いの!」
「高ければ高いほど良いんじゃないのか?」
「やだ! 絶対、やだ!」
 一歩踏み出す素振りを見せてやると、正雄はぱっと立ち上がって一目散に教室の端まで逃げていった。あれだけ遊びまわっていたというのにまだ余りある元気さで、鬼ごっこでも始めようというのか、机を回り込んでこちらの出方を窺っている。その気なら少し付き合ってやるかと腰を上げると、正雄はますます喜んで教室内をぱたぱたと駆け回った。
 けほ、ごほん――やや掠れた小さな咳にはっとする。着物の袖で口元を隠した先生は背を丸めて息を詰め、こみ上げた病の衝動を押し殺そうとしているようだった。
「悪い、やりすぎた」
 先生は無言で首を横にふった。こふ、けふ、と咳き入る度に滲んだ目元が微かに震えて、白い頬に病的な影を落としていた。
 背に手をやろうとして、人に慣れぬ猫のようにするりと身を引かれた――拒絶されているのだ。
「いえ、大丈夫、ですから」
 先生は曖昧に笑うとふらりと立ち上がった。さざめきのような咳に肩を揺らす後ろ姿に、藤倉は妙に棘立った感情を覚えた。拒絶されたことへの不快感なのか悲しみなのか、はたまたもっと別の、明確に言葉にできない不吉な予感めいた思いが苛立ちという形で表れたのかはよくわからなかった。
 閉じた襖の向こう、触れられなかった危うい身体を思う。苛立っているのは、何もできない自分自身に対してなのかもしれなかった。
 何かを隠しているということにはとっくに気がついていたが、それを真正面から突きつけたくないと思うのはやはり、自分が余所者であるという自覚があるからだろうか。自分には隠しても、直次に、池沢先生に話せていればいいと思うのは、彼の本質を理解するに足る時間を過ごしていない負い目を感じるからか。しかしこうしてひとりあてもない心境を彷徨わせている間にも確実に時は流れ去り、自分達の間にある小さな平穏はいつしか緩やかに破綻へと向かっていたのだと気づかされる日が訪れる。

 昼過ぎから怠そうに重い咳を繰り返していた先生が、今日は子ども達を入れないでくださいと言い残したきり寝込んでしまったのが三日前だった。横になっても咳は落ち着くどころかひどくなる一方、おまけに夕方からがくんと熱が上がり、水さえ受け付けずぐったりと喘ぎ続ける容態に危険を感じて池沢を呼びに走った。何本か注射を打っても中々熱は下がらず、呼吸も浅いままだった。
 盆を片手にするりと障子を開けると、壁に寄りかかってうつらうつらとしていた直次が目をあげた。代わろう、と動きだけで伝えると、直次はひとつ頷いて身を起こす。
 枕元に転がった手拭いを回収していると、ふいに先生が咳き込んだ。胸のつかえをとろうと二、三度軽く咳いたのが引き金になってしまったのか、すぐに立て続けに繰り返すようになる。響きこそ弱いものの、ずるずると治まりのつかない咳は思うように息が継げなくなるせいで相当に苦しいはずで、きつく目を閉じ、咳き入る合間に肩を跳ね上げて病んだ呼吸を繰り返す様はひどく痛々しかった。
 重い咳に身を折る先生の側に膝をついた直次が、布団の中に手を差し入れ背を擦る。
「ゼぉ……ゼろ、ぜッぜッぜ……っ、うつり…ます、から…ッ、…っだめ…」
「大丈夫、流感ではないと池沢先生もおっしゃっていたでしょう」
 ヒュウヒュウと木枯らしの吹き荒ぶ合間にも先生は弱々しい抵抗を口にする。しかし直次も慣れたもので、意にも介さず背を擦り続けた。
 うつります、だめ、触らないで――半分熱に浮かされた先生はそればかりを繰り返す。朦朧として呟く間にも咳は止めどなく零れ落ち、一際激しく咳いたかと思えば直次の差し出した懐紙にべったりと血痰を喀いた。
 血を見ても平気な様子で、直次は汚れた懐紙を捨てようと手を伸ばした。しかし先生はふるふると力なく首を横に振るばかりでそれを渡そうとはしなかった。
「兄さん、辛いときは素直に人を頼ってください。たとえうつったところで、僕なら数日寝込むくらいで治りますから」
「だめ、です……ゼぉ…ッ、ぅつったら、もう…ッ」
「体調が思わしくないから弱気になっているだけです……僕ならこのとおり、健康に働けることだけが取り柄みたいなものだから」
 まるで死病に冒されていると言っているようではないかと藤倉は思った。直次も同じ危うさを感じ取ったのだろう、咄嗟に取り繕った声には不安の影が見えた。
「少し背を起こしましょうか……そのままだと苦しいでしょう」
 努めて穏やかに手を貸そうとした直次の好意さえも先生は振り払った。思いの外強く振り抜かれた手はぱしりと音を立ててぶつかって、直次は驚いたように自分の手を見つめた。刺々しく叩かれたのだと理解して、ひどく傷ついた顔をした。
「……どうして、どうして僕は何もできない」
 いまだ高い熱やだらだらと長引く胸痛のせいでもあったし、直次は心配のあまり少し深入りしていた。それでも先生は意固地になりすぎたのだ。暗く沈んだ直次の声音にようやくそれを悟って、先生は焦りを浮かべた目でたった今傷つけてしまったばかりの弟を見た。
「ごめん、なさ、ッけホ、ぜぉ……手を上げるなんて、本当に、ごめんなさ、」
「……僕をいつまで子ども扱いする気なんですか。たしかに僕は頼りないし、兄さんみたいに勉強ができるわけでもない。でも精一杯信用してもらいたい、いつかは頼ってもらいたいと努力してるんだ!」
 ぶつりと何かが切れたかのように直次は叫んだ。
「兄さんにはわからないでしょうね……兄さんは誰のことも信用なんかしちゃいない、する気だってないんだから! 大切な人が壊れていくのを何もできず見ている人間の気持ちなんてわかるわけがない!」
 直次がこうまで激しく感情を露わにするのを見るのは初めてだった。しかし彼らしくないとは思わなかった。言葉に、態度に表さなかっただけで、彼はずっと激情をその身に隠していたのだ。一度溢れ出した熱は止めどなく、全てを今ここで吐き出してしまうまで収まりそうになかった。
「直次……本当に、ごめんなさ、」
「それだ! それなんだよ僕を苛立たせるのは! 僕はわかってほしかった、気づいてほしかった、頼ってほしかった! でももういい、もう充分だ。兄さんには僕の無力はわからない。わかられてたまるか」
 直次はぼろぼろと泣いていた。泣きながら吐き捨てるように言い残し、障子を叩きつけ閉めるとそのまま縁側に降り、下駄をつっかけて裏手から外へ出ていった。

 跳ね返って手のひら半分くらい開いた隙間から乾いた冷たい空気が流れ込んで、いっそう空虚だった。藤倉はひとまず開いた障子を閉めに立った。縁側に続くガラス戸も開け放たれたままだったが、そこも閉めてしまったら直次の帰る場所を奪うような気がして、障子だけをそっと閉めた。
「守ってあげたいと……そればかり、考えてきたんです」
 振り返ると、先生の憂いを帯びた瞳と視線が交わった。辛そうに細められた目は発熱のせいで潤んでいた。火照った頬は血の通った色をしているというのに妙に病的に見えて、藤倉は直次の言わんとしていたことをなんとなしに理解したような気がした。
「直次は言いすぎたよ……お前さんのやってることも考えも決して間違っちゃあいないさ。……だがな、直次の焦燥感は俺にも少しわかる。俺も時々怖くなるんだよ。お前さんが何を見ているのかわからないのが」
 え、という顔で先生は藤倉を見た。やっぱりわかっていなかったか、と藤倉は独りごち、先生にも鈍いところはあるんだなと妙に安心した。
「お前さんの目には何が映っている?」
「どういう、意味ですか」
「そのままの意味さ。……俺は時々思うんだよ。お前さんが見ているのは、自分のいない世界――自分のいなくなった後の世界なんじゃないか、ってね。直次はそれが不安で仕方がないんだ」
 当たり前のように自分がいる未来を想像すること。生来身体の弱い先生には自然にできることではないのだろう。下降の一途を辿る体調を思えば、それは苦痛ですらあるかもしれない。
 これからも生きていく未来を見てほしいと彼に願うことは、酷なことなのだろうか。
「お前さんの目に、自身の姿は映っているか?」
 濡羽色の瞳を真っ直ぐに射抜く。そこには不恰好に口元を歪めた滑稽な男が映っていた。

 いいかげん帰りの遅い直次を探しに教室を出た。
 探すまでもなく、直次は玄関を出たところで座り込んでいた。
「風邪をひくぞ」
「そうですね……兄さんにうつしたら大変だ」
 羽織を脱いで肩にかけてやると、直次は俯いた顔を上げた。随分と泣いたのだろう赤い目元を照れ隠しにぐいと乱暴に拭い、弱った視線を向ける。
「昔も、こんな風に喧嘩をしたことがあって……僕がまだ十の歳を数える前のことでした。些細なことから言い争いになって、売り言葉に買い言葉で僕は家を飛び出して。泣きながら友人の家に走っていって、日暮れまで遊んでいるうちにすっかり機嫌を直してしまったんですけれどね。でもその間ずっと、兄さんは言い過ぎてしまったことを悔やんで町中僕のことを探し回っていて……『お前の両親が血相変えてお前のこと探してる、なんでもお兄さんが無理をした挙句倒れたらしい』そんな知らせを受けたのは、ちょうど一番星が輝き始めた頃でした」
 なるほど、目に浮かぶようだと藤倉は思った。あの夏嵐の一件で直次があんなにも取り乱した理由もそこにあったのだろうなと、今更ながらに知った思いだった。
「慌てて帰った玄関先で、ちょうど処置を終えて帰ろうとしていた池沢先生に会いました。『君のお兄さんはとても身体が弱いんだ、もう決して今回のような無理をさせてはいけないよ』――決して叱る口調ではなく、でも真正面からはっきりとそう言った池沢先生の目がとても怖かったことを、今でも忘れられないでいる」
 緩く組んだ指先に視線を落としながら直次はぽつりぽつりと思いを吐き出していった。それはたしかに先程の激情の延長上にあったが、苛立ちと悲しみと愛情を綯い交ぜにして火をつけるのではなく、ひとつひとつ形と色を確かめてはふさわしい名前と置き場所を決めていくようであった。
「元々身体が弱いせいか、することなすこと全てがまるで命を燃やすようで……僕はそれを見ていることしかできない。誰よりも兄さんの近くにいながら、何もすることを許されない。兄さんは許してくれない。僕は時々、そういう兄さんが嫌いになる。同時に、兄さんを嫌う自分のことを、最低な奴だと心底嫌悪する」
 自分の兄が途方もなく優しい人であること、自分もその愛にたしかに包まれていると感じること、同時にその愛や優しさは彼の弱い身を壊しかねないこと――自分には兄を止められないこと、止めるべきではないということ。直次はもうとっくに自身の中で結論を出しているのだ。しかしそれを認められずに彷徨っている。
「なあ。先生は強い人だから俺達の存在なんて必要ないんじゃないか、って思ってしまうこと、ないか?」
 藤倉の中にも朧げな結論が構築されつつあった。夏の終わり、薬の匂いの染み込んだ華奢な背を抱きしめて居場所を見つけたあの日から、少しずつ何かがわかり始めた気がしていた。
「俺には時々そういう瞬間があって、ふと虚しくなったりする。でもな、あいつはただ不器用なだけなんだと思うね。不器用すぎて、何が本当の気持ちだったかさえわからなくなっているだけなんだ」
 秋が去って雪が降り、変わらないようで確実に変わりゆく日々を過ごしながら見えてきたひとつの答えがある。自分は今、ある田舎町の教師が教師として生きる様を、また同時に教師ではない平野啓司という一人の青年が生き、やがて死にゆくのを見届けるためにここにいる。寄り添い、しかし引き止めることはせず、彼のいなくなった後に彼のことを記憶しておくためにここにいる。それが自分に課せられた定めであり願いでもあるのだ。
 身を削るような咳、日に日に痩せていく背中、一層透き通るようになった濡羽色の瞳と、薄く紅を引いたような頬。懐紙に繰り返し喀かれる血痰――どれだけ鈍かろうとさすがにわかる。先生の身体は、肺に巣食った死病に蝕まれつつある。直次もきっと、とっくに気がついている。
「最近、兄さんが死ぬ夢ばかり見るんです。夢の中で兄さんは血を喀いて倒れて、もうぴくりとも動かない。必死で抱き起こした体に温もりはなくて、ああ二度と目を覚ますことはないんだと一瞬で理解してしまう。……やがてひどい悪夢を見たと汗びっしょりで跳ね起きて頬を涙が伝っていって、落ち着いてきた頃にようやく、離れた部屋から咳の音が聞こえてくるのを意識するんです。ああ夢だった夢でよかった、兄さんは生きてる、って安心するんです。聞こえてくる咳は大抵ひどく苦しげなのに、僕はそれを聞いて安心してしまう」
 怖い、と直次は掠れた声で呟いた。羽織をかき寄せて、もはや白くもならない凍った息を吐いた。
 怖いよなあ、と呑気に答える。呑気に聞こえればいいと思った。そろそろかじかんだ感覚さえも消えそうな指先を擦り合わせて、鈍色の空めがけて大きくのびをした。
「藤倉さんがいてくれて、よかったです」
 赤くなった目尻を下げて笑う彼に、先生の面影を見た。
「俺も、直次がいてくれてよかったよ」
 縮こまった背中に藤倉は黙って手を置いた。ぽろりとまたひとつ涙を零した直次は恥ずかしそうに目を伏せた。