五 空蝉・夏の果て - 1/2

 夜明け前に医院に移動してから丸二日の間、先生は薬で昏々と眠り続けた。否、眠らされ続けた。
 二日の間に打たれた注射の数は十を超え、両腕には赤黒い花弁の痕がいくつも刻まれた。惨いそれを隠すために巻かれた包帯は目に痛いほどに白く見えた。
 朝からしとしとと降り続く雨音が病室に重い湿度をもたらしていた。寝台の横に据えられた簡素な椅子に深く沈み込んでいた直次がふと身じろいで、一面の白に埋もれて眠る先生に目を向ける。触れようと伸ばされた手はしかし届く前にびくり、と怯えるように震えて動きを止めた。しばらくふらふらと宙を彷徨った手はやがて力なく敷布に落とされる。
 藤倉は細く開けた扉の合間からそれを見ていた。丸まった背中が二度、三度と嗚咽するように揺れるのを見て、音もなく扉を閉じる。手の中には渡しそびれた湯呑みが残された。

 直次の元に二人が見つかったという報せが届いたのは、降り続く雨がようやく止み始めた頃だったらしい。直次は報せを受けて一瞬狼狽えはしたものの、兄のことは藤倉さんに任せましたから、と言ったきりそれ以上は詳しいことを何ひとつ聞こうとはせず、二人が見つかってよかったと泣きじゃくり始めたハツ子の背をいつまでも撫でていたという。
 山向こうから燃えるような朝焼けが広がっていく中、ようやく町まで戻ってきた藤倉と池沢が見たのは、医院の玄関先の冷たい石畳の上に膝を抱えてひとり座り込んでいる直次の姿だった。
 ハツ子の両親が彼女を引き取って帰った直後に医院へと向かった直次は、いつ戻るかもわからない二人をひたすらに待っていた。朝靄の向こうから歩いてくる池沢と藤倉と、その背に負われた最愛の兄の姿を見てようやくぼろぼろと涙を溢れさせた直次は、それからは片時も兄の傍を離れようとしなくなった。
 直次は献身的に看病し続けていたが、先生の容体は一向に回復しなかった。一時は命さえ危ぶまれる低体温状態に陥ったせいもあり、肺の炎症がいくら薬を使おうと中々治まらない。鎮咳効果のある薬を使い続けていなければ自力での呼吸すらままならない状態であった。
 しかしこれ以上薬に頼ると副作用に身体が耐えられなくなるという。やむなく薬を減らし始めた三日目の夕方から、先生は高熱に苦しめられるようになった。
「は、は……ッ、…ハ、ぁ 、 ッ――はっ、は……」
 浅い呼吸を忙しなく繰り返す様は、まるで声を押し殺して泣いているかのようにも聞こえる。時折ひ、ッひ、とひきつけを起こしたように危うげに息を吸い込むと、病んだ胸はぎうぎうと不吉な軋音をたてた。
 手に、首元に触れてみると火傷しそうなほど熱いのに、薄い唇を震わせて細い呼吸を紡ぐことしかできない様子は、苦しみを外へ逃がす術さえも病に奪われてしまったかのようだった。不気味なほどの静けさを孕んだ苦痛がそこにあった。
 直次は一層寝台の傍から離れようとしなくなった。危うい呼吸が不意に止まりそうになると途端にがたん、と音を立てて椅子から立ち上がり、ぐったりと投げ出された手をきつく握りしめ、池沢を呼びにいくべきか視線を泳がせる。そうしている間に呼吸はまたゆっくりと落ち着いていく、そんなことを一日中繰り返していた。
 あまりに痛々しいのを見かねて粥を持っていったが、無言でつっぱねられた。お前まで倒れちゃ元も子もないだろう、と強く諭したらようやく少し口にしたが、しばらくして急に肩を跳ねさせたかと思えば口元をおさえて厠に駆け込んでしまった。
 ひどく吐き戻したのか、前髪をべったりと脂汗で張り付かせたままふらふらと戻ってきた直次の顔は紙のように白かったが、瞳だけはギラギラと剣呑に光っていた。ああ、あの日の自分もそんな目をしていたのだろうか、と他人事のように思った。

 翌日、案の定直次は極度の心労から発熱し、池沢によって無理矢理寝台の傍から引き離されることとなった。
「なぁ、先生」
 昨日よりは少し落ち着いたようだったが、いまだ目覚めない先生の呼吸は苦しげで頼りないものだった。少し目を離した間に永遠に止まってしまうかもしれないと思うと、湯呑みを手に取る一瞬や、厠に立つ数分さえも恐ろしくなってくる。昨日までの直次を笑えないなと思ったが、生憎か藤倉はそれに耐えうるだけの身体を持っていた。
 目の前で眠り続ける先生にその一部だけでも分けてやれたなら、彼は目を覚ましてくれるだろうか。
 暗闇と豪雨の中でようやく見つけた手に拍動を感じなかった瞬間の絶望が、藤倉の感覚を今も麻痺させているかのようだった。直次の代わりにこうして見守っていても、目の前の景色がどうにも現実のように思えなかった。
「お前さんが戻ってこないと、どうやら俺もあの雨の夜から抜け出せないらしくてな」
 目の前の無機質な白よりも、目を閉じると広がる闇の方が余程現実的な気がした。ざあざあと降りしきる雨音まで聞こえてくるようで、藤倉は知らずのうちに両の手をきつく握りしめていた。

 脳内で響く雨音に、ふいに現実の咳音が混ざる。
 いつの間にか眠っていたらしい。目を開けると、苦しさに顔を歪めて先生が咳き込んでいた。けほ、けほと吐息のような咳は一向に治まらないどころか、次第にぜほぜほと痰が絡んだ音をたて始める。
「おい、しっかりしろ」
 震える肩を引き寄せて体勢を横向きにし、高熱にじっとりと湿る背に手のひらをあてた瞬間、体重を支えるため敷布についたもう片方の手に熱いものが触れた。常より高い体温を宿す痩せた手が、力の入らない指先で必死に藤倉の手首を掴もうとしていた。
「っ、けほ………ッう、」
 弱々しくも確かな意志の感じられる指先が二度、三度と手首の内側を撫でる。やっとのことで手首を捕まえると、先生はそのままそれを胸の中心に抱き込むように体をくの字に折った。
「けほッ、ケホケホげほっ…………ぅ、ゲホッ、ぜぅッ――」
 背を下から上に擦りつつ軽く叩いてやると、先生は体をいっそう固く縮こまらせ鋭く咳いた。咳とともに吐き出される甲高い笛のような響きが、背にあてた手のひらを通じて伝わってくる。
「ぜほぜほぜゴぼッ………、っ、や……」
「どうした、今何か、何か言ったろう、」
 咳の合間に譫言のように呟いた気がした。目を覚ますか、という一抹の期待に体がかっと熱を帯びる。
「どうしました、何事ですか」
 声を聞きつけてやってきた池沢は、藤倉に縋って苦しげに咳き込む先生の様子を見るなり顔色を変えて歩み寄った。
「先生、聞こえますか、目を開けられますか」
 藤倉の手をやんわりと退け、咳の衝動に跳ねる肩を押さえてやりながら、池沢は小さな子どもにするように何度も優しい声音で呼びかける。
「ッや、め……っけほ、っ……! ――たし、は………、ッあ、ゔ、っく、」
「落ち着いて、大丈夫です、怖いことは何もありませんから」
 先生はひどく何かに怯えているようだった。言葉を口にしようとする度に咳に遮られ、ひゅうひゅうと胸を鳴らしながら嗚咽するように喘いでいた。
 先生が泣く姿をこれまで見たことがない。悲しみが隠しきれないとわかると、先生は無理に笑おうとするのだ。それが余計に痛々しく見えることも知らずに。藤倉はその傷ついた下手な笑顔が嫌いだった。そんな顔をするくらいなら素直に泣けばいいだろうと思っていた。
 あの夜壮絶に苦しみ、ぼろぼろと止めどない涙に頰を濡らした先生を見たとき、すとんと何かが腑に落ちた。先生は泣かないのではなく、きっと泣けないのだ、と。
 噎ぶような咳は段々と落ち着いていった。再び力を失った体が寝台に沈み込むと、池沢は呼吸と脈を確かめた後にようやく少しほっとした顔を見せた。
「大丈夫、意識が戻りかけて混乱しただけです。もう落ち着きました。……しかし、」
 意識が戻ってからの方が――言いかけて口ごもった池沢の言葉の先を、藤倉は聞かないでおくことにした。
 遅かれ早かれ、どうせこの目で見ることになるのだ。最後の呼吸を見届ける瞬間を先に想像しておけば、いざそのときが訪れてもどうにかなるのではないか。そんなことをふと考えてやめた。

 翌日の早朝に先生は意識を取り戻した。相変わらず肺は炎症を起こしたままのようで、毛布を積み重ねて作った背もたれに身を預けていても、ヒウヒウと空気の抜けるような呼吸音は苦しげなままだった。
「飲めるか」
 白湯を入れた吸い飲みを寄せると、こくりと一口、唇を湿らせる程度飲み込んだ。
「あまい……」
「飲みやすくなるかと思って蜂蜜を少し入れてみたんだが、わかるか」
 先生はひとつ頷いた。普段よりも黒目がちな瞳がふわりと焦点をぼやけさせるのを見て、藤倉は席を立った。
「後でまた来る」
 扉を開けてもう一度振り返ったときにはもう、先生は喘鳴混じりの寝息を立てていた。火照った頬に落ちる苦痛の色が薄いのを確認して、その場をそっと後にする。
 廊下に満ちた、秋の初めの翳った暑さを胸の奥深くまで吸い込んだ。ふと通りに面した窓の外に目をやると、筋状の雲がいくつも空を走っていた。入道雲のいなくなった空は夏の盛りの頃よりも幾分高くなったように思えた。
 通りの片隅に転がっているのは、短い生を終えた蝉の亡骸だろうか。眺めているうちに荷物を満載した大八車が通りを横切って、蝉はどこかに消えてしまった。
 もう聞き慣れてしまった暗い雨音がまたも耳鳴りのように響き始めるのを、窓枠に肘をついたままぼんやりと受け止める。

 昼頃医院に戻ると、診察室には駆け込みと思われる患者が一人いた。池沢は不在なのか、直次が患者の腕に包帯を巻いている。
「直次、体調はもういいのか」
「平気です。……それより、」
 直次は黙々と包帯を巻きながら、病室の方を目で指し示した。
「あまり状態が良くない。僕は池沢先生の代わりにこっちの処置をしていますから、早く行ってください」
「また発作か」
 直次は答えない。傷口にあてたガーゼをずらさないよう片手で押さえながら、もう一方の手でくるくると器用に包帯を巻いていく。その手さばきには一抹の迷いも見られなかった。
「俺が代わろう」
「いいです、藤倉さん包帯巻くの下手でしょう。いいから、行ってください」
 彼にしては随分と棘のある物言いだった。滑らかに動いていた手先が不意に狂って包帯を取り落とすのを見て、彼は精一杯の虚勢を張っているのだと気がついた。

 病室に入ると、身を起こし前屈みになって呻く先生の背を池沢が擦っているところだった。
「ああ藤倉さん、ちょっとそこの手拭いを取ってくれませんか」
 何があった、と問う己の声は図らずも上擦っていた。
「吐き気がひどくて。食べるどころか水も受け付けなくて」
 ぜえ、ぜえと荒い息を吐く先生の背がびくりと強張り、ひときわ大きく揺れた。
――ッ! ……っゔ、う、ぇ……ゲホッゴホっ…ゴぼッ、っ…! ぅ゛、ぐぶッ…ッは、は……は………ッ゛ええ゛っ、ゴぶェッ……
 咳を引き金に嘔気の波が襲うのか、咳き込む度に背を弓なりに強張らせて嘔吐えずく。しかしここ数日水の他に何も口にしていない体に吐き出すものなど存在せず、溢れるのは生理的な涙と唾液ばかりだった。
え゛おォ……ッ! …っは、はぁ、は……――ッ゛、うぇ…、 っ
 関節が白く浮き出た手にばたばたと涙が落ちる。息も継げぬほどげえげえと嘔吐き続け、ついにはぐらりと体勢を崩し池沢の肩口に倒れこむと、暴力的なまでの苦痛に全身をがくがくと痙攣させた。

 藤倉は反射的に一歩後ずさった。先生に取り憑いた何か得体の知れないモノが今まさに内側から彼を喰い殺そうとしているかのように思えて、目の前の光景にどうしようもない恐怖を覚えた。
 ガン、と引いた足が戸枠に当たって、そのまま縺れて転んで廊下に尻をついた。池沢が一瞬驚いて顔を上げるのを見た。
 足を引きずって立ち上がると、わけもわからずそこから逃げ出した。自分が何に怯えているのかもわからなかったが、ただひたすらに怖いという感情が全身を支配していた。
 あれは、あんなのは、俺の知ってる先生じゃない――
「藤倉、さん」
 小さな呼び声が藤倉の足を引き止めた。診察室の隅にある粗末な椅子に浅く腰掛けて、直次が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「すみません、僕……どうしても見ていられなくて逃げたんです。藤倉さんなら大丈夫だろうって勝手に思って、いいえ、そう思いたかっただけだ。あんな言い方して、押し付けようとした」
 迷いながら感情を殺しながら、必死に言葉を選ぶその姿は先生によく似ていた。しかし先生はそういうとき決まって目を伏せたが、直次は射るようにこちらを真っ直ぐに見つめるのだった。
「藤倉さんがいつも兄さんの傍にいてくれるようになって、正直僕は随分楽になりました。僕以上に兄さんのことを想ってくれる人にいつか兄さんを失う日が来る恐怖を押し付けて、自分は一歩そこから離れようとしたんだ」
「そんなことは、」
「藤倉さんはどんなときも冷静で、決して臆することはなくて、だから任せて大丈夫なんだと思い込もうとして――そんなはずないのに、あんなに兄さんのことを想ってくれている藤倉さんが平気でいられるはずなんかないのに、そうと気づいてもまだ僕は僕自身を守るために、貴方を盾にしようとしている」
 目の前まで歩み寄ると、直次はぐっと下唇を噛んで俯いた。震える肩にそっと手をやると、彼は素直に藤倉の胸に顔を埋めた。
「兄さんがもう二度と戻ってこないんじゃないかって思うと、たまらなく怖い」
「……ああ。俺も、怖いよ」
 くしゃりと撫でた直次の髪は先生のものとよく似て柔らかかった。声を押し殺して泣き始めた直次の背を黙って擦りながら、ああ、彼は泣けるのだな、とふと思った。